日本史通史1万2000字 前編
はじめに
4月になると日本史探究の教科書が出始めるでしょう。中身が大きく変わるわけではないでしょうが、少し楽しみです。
以前、教科書の見出しなどの比較の際に日本史の概略をまとめましたが、これから日本史を学びなおそうと考えているところでもあり、一つの文章にしてみました。
それにあたり、内容を追加し、です・ます調はである調にし、ほぼなかった年(今回は西暦に統一しました)を追加し、1万2000字程度の文章に整えました。一度に載せるには長いので、明治改元あたりを境に前編・後編に分けて載せます。それでは前編から始めます。(誤字脱字、文章が整っていない、改行ミスなどはご容赦ください。)
日本史通史前編
人類は猿人、原人、旧人、新人の順に出現した。現生人類である新人は約20万年前にアフリカからに広がった。
やがて人類は地質年代上更新世(氷河時代)に日本列島に到達した。この頃はいわゆる旧石器時代であり、日本列島においても打製石器を用いた狩猟採取文化が広がっていたとみられる。
更新世の終わり頃(地質年代上完新世)である約1万6500年前、縄文土器や磨製石器を用いるようになる縄文文化(時代)が始まる。この頃には弓矢や骨角器の使用、竪穴住居の設営など文化度合が上昇、様々な儀礼も生まれた。この頃はまだ明確な身分差はなかったとされる。
続いて、水稲耕作や金属器が大陸より伝わり列島に広まり、紀元前4世紀頃から、弥生文化(時代)が始まった。それらによる更なる文化度合の上昇は、集落の拡大と共同体内の階層化を生んだ。そして生産力の向上による余剰生産物を巡っての集落同士の争いを引き起こした。集落は環濠集落を形成し戦いに備えた。
その戦いの結果、集落が統合され小国(クニ)が生まれた。クニの存在は中国の史書にみられ、奴国や邪馬台国が挙げられる。
その後、首長を葬るための古墳が各地で作られるようになった。前方後円墳をはじめとする古墳が造営されたこの古墳時代には、今の奈良県付近に3世紀頃豪族の連合政権であるヤマト政権が誕生、大規模な古墳造営や、倭王武を代表とする倭の五王を代表とする中国への遣使がされた。ヤマト政権は氏姓制度によって豪族を支配体制に組み込んだ。
やがて大王家を中心としながら、豪族間の争いの末、蘇我氏が実権を握った。蘇我馬子は592年に推古天皇を擁立、摂政厩戸王の協力の下、603年に冠位十二階、604年に憲法十七条の制定を行うことにより集権国家形成へと動いていった。
推古朝以後ヤマト政権の中で、蘇我氏は山背大兄王を滅ぼすなど他者を排除し支配していった。中大兄皇子らは打倒に向かい、645年に蘇我宗家を滅ぼした(乙巳の変)。そして中大兄皇子は政治改革(大化改新)を行い、天皇中心集権国家を目指した。改新の詔にある公地公民や班田収授といった方針は律令国家の基礎ともいえる。その中大兄皇子もまた他者を排斥し権力を強めた。後即位し天智天皇となり、668年に近江令制定(したとされる)や670年の庚午年籍作成なども行った。天智天皇没後は後継者争いによる争いが起き、大海人皇子(天武天皇)が勝利(672年の壬申の乱)、律令国家形成は一段と進んだ。
天武天皇期には皇親政治が行われ、684年に八色の姓制定、持統天皇期には689年に飛鳥浄御原令施行、690年に庚寅年籍作成がなされ、694年には本格的な都城である藤原京が造営された。
この頃から国号として「日本」が、大王に代わる君主号として「天皇」が用いられるようになった。
以後は天皇を中心としながら、様々な勢力が権力の枢要に立つ時代が訪れる。藤原不比等は大宝律令制定や710年の平城京遷都に尽力、天皇家と姻戚関係も持った。続いて長屋王が権勢をふるうが不比等の四人の子の讒言により自殺させられた(729年の長屋王の変)。しかしその四子は天然痘で死亡した。さらに続いて橘諸兄が政権の枢要に立った。その頃は聖武天皇の時代で、鎮護国家思想の下、国分寺建立の詔や大仏造立の詔が出された。孝謙天皇の時代になると藤原仲麻呂(恵美押勝)が権力をふるうようになり、これに対し旧豪族らが排除を企てるも失敗(757年の橘奈良麻呂の変)した。また藤原仲麻呂も孝謙太上天皇の信任のあつくなった道鏡の排除の企てに失敗した(764年の恵美押勝の乱)。その道鏡は和気清麻呂による宇佐八幡神託事件で皇位に即くことなく、称徳天皇没後失脚し下野薬師寺に追放された。
勢力の交代の中で即位した桓武天皇は784年の長岡京、794年の平安京遷都や蝦夷征討を行うなど政治改革及びその停止を行った。続いて即位した平城天皇は後即位した嵯峨天皇との間で二所朝廷と呼ばれる混乱を引き起こすが、平城太上天皇側の敗北に終わった(810年の薬子の変または平城太上天皇の変)。
薬子の変以後藤原家北家が国政の枢要に立った。藤原良房は842年の承和の変にて伴健岑・橘逸勢らを排斥、さらに孫の清和天皇が即位すると摂政となった。さらに866年の応天門の変にて伴善男を排斥し権力の確立を図った。良房の養子の藤原基経は関白の任に就くとさらに阿衡の紛議にて自らの政治的立場を強化した。
基経没後、宇多天皇は菅原道真を登用、続く醍醐天皇の治世では藤原時平が登用されたが、時平らの讒言により道真が太宰権帥の左遷される事件が起こった。醍醐天皇及び一代先の村上天皇の治世は摂関を配置しない、後に延喜・天暦の治と称される天皇親政時代であり、902年の延喜の荘園整理令や延喜格式など律令制再建がみられたが、実際は律令体制の崩壊へと続く時代でもあった。
後、969年の安和の変による源高明失脚の後には藤原氏全盛の時代を迎える。藤原氏内部での地位争いの中、藤原道長は4人の娘を入内させ権勢を握った。子の藤原頼通もまた3代の天皇の摂関となった。
またこの頃から紛争鎮圧に貴族が派遣されるようになり、土地に土着すると武士が登場するようになった。宮中の護衛として897年の滝口の武士設置や939年から941年にかけての天慶の乱鎮圧に武士の発展を見ることができる。
摂関家と外戚関係を持たない後三条天皇が即位すると親政を行った。1069年に延久の荘園整理令の発令や記録荘園券契所の設置などの改革を行った。
一方地方の内乱に武士が活躍し、1051年から69年の前九年合戦及び1038年から87年の後三年合戦を通して源氏は武家の棟梁としての地位を確立した。
中央では、1086年に白河天皇が堀河天皇に譲位後、上皇となり国政を主導するようになった(院政)。院政は院近臣たる貴族が院司とし実務を掌握、また警護要員とし北面の武士を配したが、武士の中央進出の足場となった。
鳥羽上皇の没後、天皇家や摂関家内部の問題解決に武士が動員されることになる。1156年の保元の乱にて崇徳上皇方が敗北、後白河天皇方が勝利した。さらに、続く1159年の平治の乱によって平氏が台頭することになった。
平治の乱の後、平清盛が政権を掌握した。平清盛は1167年に太政大臣となった。また1177年の鹿ケ谷の陰謀の後、後白河法皇を幽閉、権力を強化した。1180年には安徳天皇を擁立した。この平氏政権の性格は官職独占や知行国保有など、公家政治の姿もとっていた。この政権の姿勢は多くの貴族、武士の反感も買った。
1180年に以仁王の令旨が出されると源頼朝は挙兵、鎌倉を拠点に行動を行った。源義経らを派遣し平家を破るとともに1180年に侍所や、1184年に公文所・問注所の設置を行い、武士の統制を行い始めた。1185年の壇ノ浦の戦いにて平氏が滅亡すると、同年に守護・地頭の設置を認めさせ、武家による支配の端緒となった。そして源頼朝は1192年に征夷大将軍に任じられ鎌倉に武家政権を築いた。
頼朝の子源頼家が将軍を継ぐと合議制により政治がとられたが、中でも北条時政ら北条氏が台頭し、執権として幕府の中心にありつつ畠山重忠、和田義盛はじめ他氏を排除、政権を掌握した。
その頃朝廷では後鳥羽上皇による院政が行われており、西面の武士設置などを行った。1219年の将軍源実朝暗殺以後は執権北条義時や頼朝の妻北条政子(尼将軍)が幕府の実権を握り、関係が悪化、1221年に倒幕のため挙兵するも幕府軍の前に敗北した(承久の乱)。乱の後西国監視のため同年に六波羅探題を設置した。この乱の結果、幕府、特に北条氏の執権政治が強化された。
執権北条泰時の頃、1225年に連署や評定衆の設置、1232年に御成敗式目の制定などが行われ執権政治が確立された。また執権北条時頼の頃には1249年に引付が設置され裁判制度も拡充した。
執権北条時宗の時にはモンゴルが襲来(蒙古襲来、元寇、1274年の文永の役、1281年の弘安の役)し国内が動揺した。この間1275年には異国警固番役が実施された。この蒙古襲来は政治や社会に大きな影響を与えた。またこの頃から北条氏の中でも得宗と呼ばれる存在が権力を持つようになった。
蒙古襲来以後は北条家得宗及び身内人が政治の枢要に立ち得宗私邸での寄合で決済される政治(得宗専制政治)が行われた。執権北条貞時の時、1285年の霜月騒動で有力御家人安達安盛が内管領平頼綱に滅ぼされ、またこの平頼綱は貞時によって滅ぼされた(1293年の平頼綱の乱)。これによって貞時は得宗専制政治を確立した。執権北条高時の時代には内管領長崎高資が実権を握った。
一方朝廷では後嵯峨上皇以後、持明院統と大覚寺統に皇統が分裂していた。幕府はこれに介入し1317年に文保の和談を提議し、後醍醐天皇が即位した。
後醍醐天皇は1321年に記録所を再興するなど親政を行うとともに、倒幕計画を立て(1324年の正中の変・1331年の元弘の変)失敗しながらも、足利尊氏や新田義貞、楠木正成らの協力により1333年に倒幕に成功した。
鎌倉幕府滅亡後はいわゆる建武の新政行うが、先例を無視した行い方に不満が出て、1335年の北条高時遺児の北条時行の起こした中先代の乱を機に尊氏が離反し、争乱を経て尊氏は1336年に建武式目を制定、1338年に征夷大将軍に任じられた。後醍醐天皇は吉野に潜幸、以後、南北朝の動乱とも呼ばれる朝廷並列期に入った。しかし尊氏側の北朝内部でも1350年以降尊氏執事の高師直と尊氏弟の足利直義間の派閥対立が発生(1350年~1352年の観応の擾乱)、全国規模の争乱となった。
一連の動乱は将軍足利義満の頃に安定化した。義満は山名氏清や大内義弘など有力守護を弱体化させ権力の確立をするとともに1392年に南北朝の合体を成し遂げた。
一方、関東や奥羽を管轄する機関鎌倉府は幕府から半ば独立しており、幕府や鎌倉府長官鎌倉公方、それを補佐した関東管領はしばしば対立し争っていた。
将軍足利義教は強権政治を敷き1438年の永享の乱による足利持氏討滅など守護・公家等を処罰していったが、反感を買い1441年に赤松満祐に謀殺された(嘉吉の変)。
さらに将軍足利義政の時代には畠山・斯波両守護の後継者争いが絡んだ将軍後継者争いは大規模な内乱に発展(1467年から77年の応仁の乱)し、幕府の権威は失墜、戦乱の中で守護大名や守護代、国人などから発展した戦国大名が各国に割拠する戦国時代に入った。
戦国大名は独自に貫高に基づき軍役を課し、地侍や重臣を寄親・寄子制により組織化、分国法を制定し、領国内を一元的に支配した。
戦国大名が割拠する時代に、尾張の織田信長が台頭した。1560年に今川義元を討ち(桶狭間の戦い)、斎藤竜興滅ぼし岐阜を本拠とし「天下布武」の印判の使用を開始した。さらに足利義昭を奉じ入京し、畿内へ進出した。この後、1570年に浅井・朝倉連合軍を破り(姉川の戦い)、1571年に延暦寺を焼き、1573年に将軍足利義昭も京から追放した(室町幕府滅亡)。1575年の武田勝頼との戦い(長篠合戦)では鉄砲隊を用い勝利、また1580年に石山本願寺を屈服させる(石山戦争)などして全国統一を進めた。またこの間に近江に安土城を築城、安土山下町などに楽市・楽座令を出すなどの政策もした。
しかしながら中国攻めに際して、1582年に家臣の明智光秀に襲撃され織田信長は命を落とした(本能寺の変)。
本能寺の変の後、羽柴秀吉は中国攻めから戻り明智光秀を破った(山崎の戦い)。さらに1583年に柴田勝家を滅ぼし(賤ケ岳の戦い)、信長後継者の地位を確立した。そして、かつての石山本願寺の地に大坂城を築城した。織田信雄・徳川家康連合軍とは和睦(小牧・長久手の戦い)するものの全国統一を固めていった。
一方秀吉は1585年には関白を叙任され、1586年には後陽成天皇より豊臣姓を賜り、さらに聚楽第に天皇行幸を仰ぐなど、古代の権威も統一に用いた。
その後は北条氏を滅ぼし(小田原攻め)、奥州も平定し1590年に全国統一を成し遂げた。
この間、秀吉は検地(太閤検地)を全国規模に行い、石高制に基づいた知行体制を確立、1588年に刀狩令、1591年に人掃令により兵農分離も行った。
晩年には朝鮮出兵(1592年から93年の文禄の役・1597年から98年の慶長の役)を行い、大陸進出も図った。
豊臣秀吉没後、五大老・五奉行内部の政策方針の対立による関ケ原の戦いが1600年に勃発、勝利した徳川家康が後継者の地位を確立、1603年に征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開いた。また家康は将軍職を子の秀忠に譲り政権継承を示すとともに大御所として実権を保持した。
しかし大阪には豊臣秀頼がおり勢力を保持していた。家康は方広寺鍾銘事件を機に大阪を二度にわたって攻め(大坂の陣、1614年の大坂冬の陣・1615年の大坂夏の陣)豊臣家を滅ぼした。
後には親藩・譜代大名は要地に、外様大名は辺境に配置するなど国替を行い、1615年に一国一城令や同年に武家諸法度を出すなどして大名を統制した。また、同年に禁中並公家諸法度などにより朝廷・公家を、寺院法度などにより寺社をも統制した。
将軍徳川家光の時代には1635年の武家諸法度の改定により参勤交代を制度化し、大名統制を強化した。
こういった幕府と藩の関係を主に、厳格な身分制度も包含した幕藩体制が成立した。
また、江戸初期まであった対外交渉・交易はたびたび出された鎖国令により統制され、「鎖国」が完成した。しかし実際には「四つの窓口」を通じて外の世界と通じていたとされる。
やがて江戸時代初期の大名改易などにより牢人が大量に発生し社会問題化し、1651年に慶安の変が発生し、同年に末期養子の禁の緩和がなされることになった。将軍家綱の頃から、武力による武断政治から儀礼・法制・教化による文治政治への転換による秩序維持がなされ始めた。
将軍徳川綱吉の時代には忠孝・礼儀を重視した武家諸法度が発布された。側用人柳沢吉保を重用し、1685年に生類憐みの令が出された。
将軍徳川家宣の時代には侍講新井白石による政治が行われた(正徳の政治)。元禄時代の政治を改めるとともに、正徳金銀の発行や対外貿易の制限も行った(1715年の海舶互市新例)。
この18世紀頃から幕藩体制が変質し始め、その再建のため徳川吉宗が将軍に招かれ改革が始められた(1716年から享保の改革)。新田開発や年貢増徴のための定免法採用、倹約令や1722年の上げ米、1723年の足高の制による財政再建や、1742年の公事方御定書などの法整備が行われた。また江戸に目安箱を設置、その意見を採用し1722年に小石川養生所を設置した。
享保の改革以後は側用人から老中となった田沼意次が台頭した。従来の緊縮政策と異なり、商業資本の積極的利用が見られ、株仲間公認と運上・冥加の徴収を行い、長崎貿易の拡大、蝦夷地開発を図った。しかし賄賂政治がはびこったとされる。
将軍徳川家斉の時代には、老中松平定信が幕政を担当、改革を行った(1787年から寛政の改革)。田沼政治刷新を主として、倹約令を出し、農村政策を重視して、1790年に旧里帰農令を出した。また江戸町政では1791年に七分積金を行わせ、諸国には1789年に囲米を命じ、備荒貯蓄・米価調整を図った。しかし成果はあまり出ず、幕閣内対立などで定信は老中を辞任した。
定信辞任後は将軍家斉が実権を握った。また、次の代の家慶に将軍職を譲ったのちも大御所として実権を握った。この間は1805年に関東取締出役を設置し、下部に1827年に寄場組合を結成させ、警察機能を強化し社会問題に対処しようとした。
大御所家斉の没後から老中水野忠邦が改革を始めた(1841年から天保の改革)。経済統制のため倹約や株仲間の解散を行い、農村再建のための1843年に人返し令などを出した。しかし幕府直轄領拡大を目指した1843年の上知令の失敗により忠邦は失脚した。
すでに18世紀の後半ごろから日本沿海に外国船が出現するようになっていた。それに対し幕府は穏便な対処とし1806年に薪水給与令を出したが、1808年のフェートン号事件等の対外関係での事件の続発により1825年に異国船打払令をだした。それでも続発する事件やアヘン戦争の情報により1842年に天保の薪水給与令を出した。
老中首座阿部正弘の時代には1853年にペリーが来航、対処のため江戸に台場など設置し、1854年には日米和親条約を締結した。阿部正弘は国防強化のため1855年に洋学所・海軍伝習所の設置を行うなど改革を行った(安政の改革)。
老中首座堀田正睦は新たな条約締結のため勅許を求めるもおりなかった。これに対し大老井伊直弼は無勅許で1858年に日米修好通商条約を締結した。これは領事裁判権を認め関税自主権の欠如をもった不平等条約であった。
一方国内では将軍徳川家定の継嗣問題が発生、徳川慶福(家茂)派と一橋(徳川)慶喜派に分かれたが、井伊直弼の大老就任により徳川慶福が将軍となった。これら無勅許調印や継嗣問題での井伊直弼への反対行動に対し、大弾圧が行われた(1858年の安政の大獄)。その結果井伊直弼は暗殺されることになった。(1860年の桜田門外の変)
井伊直弼没後、老中首座安藤信正は公武合体を推進したが、1862年に坂下門外で襲撃され失脚した。
その後、薩摩藩の島津久光が勅命を受け1862年に文久の改革を推進するとともに、長州藩ら尊王攘夷派を追放した(1863年の八月十八日の政変)。長州藩の急進派は、これに対し京で薩摩藩・会津と交戦(1864年の禁門の変)し、これにより幕府は長州藩を攻めた(長州征討(1864年が第一次・1866年が第二次))。長州征討の間に、列強との戦闘から薩摩藩と長州藩は列強の排除が不可能と認識し連合を結び、倒幕へと動いた(1866年の薩長連合)。
将軍徳川慶喜は公議政体論に基づく将軍中心の雄藩連合政権の再建をはかって1867年に大政奉還の上表を朝廷に提出した。ここに江戸幕府は滅亡した。同年同日、岩倉具視が倒幕の密勅を出し、王政復古の大号令を宣言し、天皇中心新政府樹立へと向かい、同年の小御所会議にて辞官納地が慶喜に通告された。そして旧幕府軍と新府軍との間で1868年に戊辰戦争が勃発した。
新政府は1868年に五箇条の御誓文や五榜の掲示にて方針を公布し、東京改称、明治改元、明治天皇の東京行幸を行った。
その間、戊辰戦争は1869年の五稜郭の戦いにて旧幕府軍の敗北に終わった。
後編に続きます
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