見出し画像

日本史について思うこと 近世 安土・桃山時代

 鎌倉時代末期・室町時代・戦国時代に次いで、安土・桃山時代を見ていきたいと思います。まずは流れから見てみます。

 戦国大名が割拠する時代に、尾張の織田信長が台頭してきます。今川義元を討ち(桶狭間の戦い)、斎藤竜興滅ぼし岐阜を本拠とし「天下布武」の印判の使用を開始します。さらに足利義昭を奉じ入京し、畿内へ進出します。この後、浅井・朝倉連合軍を破り(姉川の戦い)、延暦寺を焼き、将軍足利義昭も京から追放します(室町幕府滅亡)。武田勝頼との戦い(長篠合戦)では鉄砲隊を用い勝利、また石山本願寺を屈服させる(石山戦争)などして全国統一を進めます。またこの間に近江に安土城を築城、安土山下町などに楽市・楽座令を出すなどの政策もしました。
 しかしながら中国攻めに際して、家臣の明智光秀に襲撃され織田信長は命を落とします(本能寺の変)。
 本能寺の変の後、羽柴秀吉は中国攻めから戻り明智光秀を破ります(山崎の戦い)。さらに柴田勝家を滅ぼし(賤ケ岳の戦い)、信長後継者の地位を確立します。そして、かつての石山本願寺の地に大坂城を築城します。織田信雄・徳川家康連合軍とは和睦(小牧・長久手の戦い)するものの全国統一を固めていきます。
 一方秀吉は関白叙任や、後陽成天皇より豊臣姓を賜わり、さらに聚楽第に天皇行幸を仰ぐなど、古代の権威も統一に用いました。
 その後は北条氏を滅ぼし(小田原攻め)、奥州も平定し全国統一を成し遂げます。
 この間、秀吉は検地(太閤検地)を全国規模に行い、石高制に基づいた知行体制を確立、刀狩令人掃令により兵農分離も行いました。
 晩年には朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を行い、大陸進出も図りました。

 今回は安土・桃山時代、織豊政権期を見てみました。織田信長の時代から全国統一の施策がなされはじめ、豊臣秀吉の時代にそれがなされた、近世的権力の成立の過程が見られます。

 それでは教科書の書き方を見てみます。日Bでは6章の第2節まで、日探では8章すべてです。日Bでは幕藩体制の成立つまり元禄時代直前までであった章を、幕府の成立前で区切る、よく言われる安土・桃山時代に当たる部分を独立させた形になっています。つまり織豊政権期を幕藩体制成立期と分けたということでしょう。織田政権時代を見ても、ちょうど従来の戦国大名の支配と、幕藩体制的支配の過渡期であり(検地や楽市楽座は前者、一揆の解体は後者という感じでしょうか)、豊臣政権時代になってさらに太閤検地(国絵図・検地帳提出含む)や刀狩によって江戸時代の幕藩体制の基幹部の成立が見られるでしょう。

 さらにここの章は、近世の転換として「銀」の交易を冒頭に用いており、国際関係を含めて歴史の展開を理解・解釈していくということでしょうか。他に、小見出しが細かく変わっていますが、分かりやすいようにとのことでしょうか。南蛮貿易は国際的な文化の交流になっています。

 もう一つ、近世という言葉が使われていますが、その近世の成立とは何かもあるでしょう。後で述べるかもしれませんが、日本でのそれは幕藩体制、「近世」的な封建体制の成立(近世の言葉がループ?してしまっている)が挙げられるでしょうし、土地制度なら荘園公領制の解体(よく言う一地一作人の原則)もあるでしょう。

 ここまで安土・桃山時代を見てみました。続いては江戸時代成立、展開期(正徳の政治あたりまで)を見てみたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?