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日本史について思うこと 中世 鎌倉時代末期(得宗専制期)・室町時代・戦国時代

 鎌倉時代の鎌倉殿期・執権政治期に次いで、鎌倉時代末期(得宗専制期)・室町時代・戦国時代を見てみます。まずは流れから見ていきます。

 蒙古襲来以後は北条家得宗及び身内人が政治の枢要に立ち、得宗私邸での寄合で決済される政治(得宗専制政治)が行われます。執権北条高時の時代には内管領長崎高資が実権を握ります。
 一方朝廷では後嵯峨上皇以後、持明院統と大覚寺統に皇統が分裂していました。幕府はこれに介入し文保の和談を提議し、後醍醐天皇が即位します。
 後醍醐天皇は記録所を再興するなど親政を行うとともに、倒幕計画を立て(正中の変元弘の変)失敗しながらも、足利尊氏新田義貞楠木正成らの協力により倒幕に成功します。
 鎌倉幕府滅亡後はいわゆる建武の新政行いますが、先例を無視したやり方に不満が出て、中先代の乱を機に尊氏が離反し、争乱を経て尊氏は建武式目制定、征夷大将軍に任じられます。後醍醐天皇は吉野に潜幸、以後、南北朝の動乱とも呼ばれる朝廷並列期に入ります。しかし尊氏側の北朝内部でも派閥対立が発生(観応の擾乱)、全国規模の争乱となります。
 一連の動乱は将軍足利義満の頃に安定化します。義満は有力守護を弱体化させ権力の確立をするとともに南北朝の合体を成し遂げます。
 一方、関東や奥羽を管轄する機関鎌倉府は幕府から半ば独立しており、幕府や鎌倉府長官鎌倉公方、それを補佐した関東管領はしばしば対立し争っていました。
 将軍足利義教は強権政治を敷き守護・公家等を処罰していきましたが、反感を買い赤松満祐に謀殺されます(嘉吉の変)。
 さらに将軍足利義政の時代には守護の後継者争いに端を発した将軍後継者争いは大規模な内乱に発展(応仁の乱)し、幕府の権威は失墜、戦乱の中で守護大名守護代国人などから発展した戦国大名が各国に割拠する戦国時代に入ります。
 戦国大名は独自に貫高に基づき軍役を課し、地侍や重臣を寄親・寄子制により組織化、分国法を制定し、領国内を一元的に支配しました。

 今回は少し長めになりましたが、鎌倉時代末期から室町、戦国時代を見てみました。武家政権の展開と権力の中心の変遷がみられます。

 それでは教科書の書き方を見てみます。日Bでは5章、日探では7章それぞれすべてです。章の内容はほぼ変わらないようです。大きな変化の点は、北山文化や東山文化と分けていた室町時代の文化を室町文化と統一したという点でしょう。本文を読んでみないとわかりませんが、例によると3代義満、8代義政の時期のみならず4代義持、6代義教の頃にもすぐれた作品があるから北山・東山文化には連続性がある、と書かれています。分けた方が理解はしやすいのではとも思いますが、あえて一括して室町文化とすることで、この時期の文化の全体の姿を捉え、理解していくというのでしょうか。細かくは述べませんが、実際見てみると両文化にまたがった芸術や宗教の展開が見られるので、一括した考え方も流れとしての理解にはありかなと思います。

 ここまで鎌倉時代末期(得宗専制期)、室町時代、戦国時代(の部分)と書き方を見てみました。続いては近世、いわゆる安土・桃山時代を見てみたいと思います。

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