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日本史について思うこと 近世 江戸時代後期(動揺期・衰退期)

 江戸時代の前期に次いで、江戸時代後期(動揺期・衰退期)を見てみたいと思います。それではまずは流れから見てみます。

 この頃(18世紀頃)から幕藩体制が変質し始め、その再建のため徳川吉宗が将軍に招かれ改革が始められました(享保の改革)。新田開発や年貢増徴のための定免法採用、倹約令や足高の制上げ米による財政再建や、公事方御定書などの法整備が行われました。また江戸に目安箱を設置、その意見を採用し小石川養生所を設置しました。
 享保の改革以後は側用人から老中となった田沼意次が台頭してきます。従来の緊縮政策と異なり、商業資本の積極的利用が見られ、株仲間公認と運上・冥加の徴収を行い、長崎貿易の拡大、蝦夷地開発を図りました。しかし賄賂政治がはびこったとされます。
 将軍徳川家斉の時代には、老中松平定信が幕政を担当、改革を行いました(寛政の改革)。田沼政治刷新を主として、倹約令を出し、農村政策を重視して、旧里帰農令を出しました。また江戸町政では七分積金を行わせ、諸国には囲米を命じ、備考貯蓄・米価調整を図りました。しかし成果はあまり出ず、幕閣内対立などで定信は老中を辞任します。
 定信辞任後は将軍家斉が実権を握ります。また、次の代の家慶に将軍職を譲ったのちも大御所として実権を握ります。この間は関東取締出役を設置し、下部に寄場組合を結成させ、警察機能を強化し社会問題に対処しようとしました。
 大御所家斉の没後から老中水野忠邦が改革を始めます(天保の改革)。経済統制のため倹約や株仲間の解散を行い、農村再建のための人返し令などを出します。しかし幕府直轄領拡大を目指した上知令の失敗により忠邦は失脚します。

 今回は江戸時代後期、動揺期・衰退期ともいえる時期について見てみました。この時期は幕藩体制が動揺する時期で、それに対して相次いで改革がなされました。特に3大改革と呼ばれる享保・寛政・天保の改革では、財政難のため倹約を中核に据え、身分や経済統制による幕藩体制の維持、改善を目指していました。一方田沼時代は重商主義的な政治方針がとられるなど、主な為政者によって、変わっていたようです。これは幕閣内対立も深く関係しているようで、江戸時代を通しての為政者と政策方針の変遷はそこにも要因はあるようです。

 それでは教科書の書き方を見てみます。日Bは8章すべて、日探は10章すべてで、内容は小見出しを含めて変わってはいないようです。実際は、内容は変わってはいるはずですが、小見出しが変わっていないということは変える必要はないということなのでしょう。

 ここまで江戸時代後期(動揺期・衰退期)を見てみました。続いては近代編へ突入、江戸幕府末期(滅亡)と明治新政府発足あたりまでを見てみたいと思います。

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