ロシアによるウクライナ侵攻で再浮上した「非核三原則」と「核シェアリング」の議論
ロシアによるウクライナへの侵攻で、日本では安倍晋三元総理の言及により、核シェアリングが再浮上した。
ウクライナが核を放棄したからロシアが侵攻したと、核保有・核シェアリング派が発信しているが果たして本当にそうなのか、プーチンの主張も含めてウクライナがソビエト連邦の構成国であった時代(末期)から話してみたい。
共和国主権宣言からウクライナ独立まで
ソビエト連邦でゴルバチョフ政権が誕生して改革運動が盛り上がる中、1990年7月16日に共和国主権を宣言した。
この共和国主権宣言は当時の最高議会で採決され以下の内容が規定されている。
そして1991年8月、モスクワで起きた守旧派のクーデターが失敗するが、同月24日に独立を宣言し国名を現在のウクライナとなる。
同年の12月1日に独立に関する国民投票を行い、90%以上の圧倒的多数が独立を支持し、同時にクラフチュク最高会議議長が初代大統領として選出され、12月3日に当時のロシア共和国が独立を承認したことでウクライナの独立は決定的となり、ソビエト連邦解体(ソ連崩壊)に伴い、12月末には名実ともに独立国となった。
1994年12月5日、ハンガリーの首都ブタペストで、ベラルーシ・カザフスタン・ウクライナが核不拡散条約に加盟した事で、協定署名国がこの3国に安全保障を提供する「ブタペスト覚書」にアメリカ、ロシア、イギリスが署名。
そして中国とフランスは、それぞれの書面で個別保障を行うとした。
ウクライナは1992年5月までにソ連の戦術核を全てロシアに撤収させている。
なお、戦略核の完全撤去となるのは、もう少し後の話になる。
ちなみにウクライナは核保有国と言われていたが、ウクライナ領土にあった核兵器の管理運用はソ連になるので使えなかった。
ようは、ソ連時代にソ連の核兵器や関連施設がウクライナ領土内に置かれたまた独立・ソ連崩壊となったので、ウクライナは物理的保有をしていただけで使用はできなかった。
独立後からオレンジ革命まで
独立後、ウクライナはソ連崩壊(連邦分業体制崩壊)の影響をモロに受け、生産力低下やインフレ急進となり、対外債務が膨れ上がった。
そして、1994年の大統領選挙において、元首相のクチマ候補はロシアとの経済面での統合強化を訴え、独立の強化を訴えたクラフチュク大統領を決選投票の結果僅差で破り第2代大統領となる。
クチマ大統領は経済改革を第一の課題に掲げると共に議会の共産主義・社会主義勢力を経済改革の障害として批判した。
ウクライナはアメリカの財政・技術支援を受けて、ICBMのサイロを廃棄やミサイル本体の解体も着手し、クチマ大統領は1996年6月1日にウクライナ領土からの核弾頭完全撤去を発表した。
しかし,ミサイルの解体に伴って生じた有毒な固体燃料は、アメリカの支援で無毒化・民生転用処理が計画されていたが、2003年6月にアメリカの財政上の理由からアメリカとの間で計画内容の見直し等の協議が行われた。
そして欧州でEUとNATOが拡大する状況の中、
ウクライナがロシアにエネルギー依存する状況は変わっていなかった。
EUなのかロシアなのか、どちらに寄るかという状況下のウクライナは2004年の大統領選挙で親露派のヤヌコーヴィチとEUへの帰属を訴えるユシチェンコの一騎討ちとなった。
開票の結果、ヤヌコーヴィチの当選が発表されると、ユシチェンコ支持層からヤヌコーヴィチ陣営の選挙不正があったと主張し、大規模なストライキやデモなどを行い選挙結果に抗議した。
選挙結果はロシアが支持するも、アメリカや欧州も選挙結果に反応したことで再投票の末、ユシチェンコが大統領として就任した。
この一連の出来事が「オレンジ革命」と言われている。
なお、ソ連の核兵器(ICBM)解体に伴い発生した大量の有毒な個体物質の無毒化・民生転用処理計画の内容の見直し協議が、2007年11月1日に合意となり、2007年以降の2011年にかけての処理活動実施及び5~7%のアメリカからの財政支援等が決定した。
親露派政権誕生以降
しかし、ユシチェンコ政権は対立などがあり支持率の低迷により、2010年のウクライナ大統領選挙では、ヤヌコーヴィチが大統領就任となる。
2010年4月、核セキュリティ・サミットでヤヌコーヴィチはウクライナが高濃縮ウランを2年間で放棄すること、アメリカのオバ(当時大統領)はそれに対して必要な技術・財政援助を行うとする共同宣言を発表し、同年12月には大部分の高濃縮ウランがロシアに移送された。
ソ連崩壊後の数年間のウクライナは汚職と経済成長の停滞などで様々な問題を抱えていたところ、ヤヌコーヴィチが当初はEU連合協定に署名する意思を示していたが、最終的に署名を拒否したことが引き金となり、有名な「ユーロ・マイダン革命(マイダン革命)」の運動が始まった。
ヤヌコーヴィチのEU連合協定の署名拒否の背景として経済難を何とかしよう(冬を越すため)と、やむを得ずロシアにロシアに接近した格好となったことが、尊厳の革命(ユーロ・マイダン革命、マイダン革命)になった。
マイダン革命の間、ヤヌコーヴィチはロシアと数十億ドルに及ぶ融資協定について締結したが、革命運動が日に日に激しさを増していき、ヤヌコーヴィチと一部の政府高官などが国外逃亡したことで、ウクライナ暫定政権が発足した。
しかし、暫定政権の発足に否定的であったロシアは、ヤヌコーヴィチ政権の崩壊をクーデターによるものと位置付けて、ウクライナへの軍事介入を起こしたのが、クリミア危機(クリミア侵攻)とウクライナ東部紛争(二つの共和国)である。
最後に
ロシアによる軍事介入までを記したが、ご覧の通りロシアはウクライナが核兵器を放棄したからではなく、自分達ロシアとって都合の良い政権が崩壊したことをキッカケにして軍事介入(クリミア侵攻・ウクライナ東部紛争)を起したというのが分かる。
私は核保有や核シェアリング(共有)の議論は大いにやるべきだと思うが、日本の歴史と全く異なる国のウクライナがロシアに侵攻された事を挙げて議論するのは違う。
ましてや日本が核保有・核シェアリングしたところで、打つ覚悟が無ければ核兵器を保有しても共有しても全く意味が無いないので、持ってるだけで抑止力になると言う人はゲームの世界の住人なのだろう。
例えば、腕っ節が強いが殺める事に躊躇する人より、刑務所(懲役)に入ることも躊躇わない反社や半グレに恐怖を感じるのは、そういうことだ。
つまり何をされるか・何をするか分からないというところに不気味さと恐怖がある。
しかし、ウクライナはロシアの戦力よりも少なく、核兵器も保有していないのに覚悟を決めてロシアと戦っていることを忘れてはいけない。
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