霊魂と肉体(5) -潮汐の干満と火気水気-
#00627 2019.12.3
序でに申しますが、この潮汐の干満は唯人間の肉体に関係あるばかりではありませぬ。世界の所在総ての物にも及びて居るものであります。
その事実を窺ふ一端として、秩父一名イタブともまた俗に乳の木とも称する木がありますが、この木はこれを折りますとその折口より色白く乳汁の如き汁の出る木であります。然るにこの木を折りて見ると潮汐の干満が判ると申し伝へて居りました故、試験してみたことがありましたが、全く事実に違ひありませぬ。
それはこの木の枝を折りて見るに、潮の込み時には折り取った枝の折口よりは少しも汁出でずして幹の方の折口より汁出で、また潮の引き時に折り取りたらむには幹の方の折口よりは少しも汁出でずして折り取りたる枝の方の折口より汁の出るものにて、幹の方より汁の出るは潮の込み時、枝の方より汁の出るは潮の引き時であるとの事でしたが、実験の結果、果してその通りに違ひありませぬ。
これはこの秩父の木に限りて然ると申す訳ではありませぬ。何れの草木にても必ずこの通りにて、潮の込み時には水気が上へ上へと昇りて居り、潮の引き時には水気が下へ下へと降りて居る故、前に申した通りである事申すまでもありませぬ。
然れば潮の干満の人間の肉体に関係あるのみならず、所在一切の物にまで及び居る事、これを以て推量せらるゝ事であります。
こゝに今一つこの話の参考になる事がありますから序でに申しますが、前に申した火の事も、唯人の霊魂に関係あるのみならず、この世の所在物に関係して居る事申すまでもなき事であります。
それは彼(か)の筍(たけのこ)でありますが、或る説に、筍は夜丈が伸びて昼は周囲が太くなるものである故に、筍の朝生ひ出でたるを見出せども夕方に生ひ出でたるを見る事はなきものである。これを以て朝その丈と廻りの寸尺を計り置きて夕方にこれを検するに、その廻りは太くなりて居れども丈は少しも伸びて居らず、また夕方に丈と廻りとを計り置きて翌朝これを検するに、丈は著しく伸びて居れどもその廻りは太りて居らぬものであるとの説でありましたから、壮年の節、地方に在りてこれも試験してみたるに全く事実でありました。
そこでその後、或る老人にこの話を致しましたところ、老人手を拍ちて大いに喜びて申すには、「我、先年佐渡の金鉱の抗夫たりし者に聞きたるに、坑内数里堀入りたる穴の奥にても昼夜の時刻が知れるとの事でありし故に、如何にして知れるかと反問したれば、彼答へて云ひけるには、坑内深く堀入りては何を油皿に用ひても火の点らざるものなれども、鮑の貝殻を用ふれば燈火の消えざるものである、さてその燈火の夜明頃即ち卯の刻には楕円形になるを、それより漸々(ようよう)に長短くなり、昼の午の刻頃に至れば全く円形となり、また時移りて夕方酉の刻頃となれば追々に丈延びてまた楕円形となり、それより猶時の移りて夜の更(ふ)くるに随ひ燈火の幅狭くなるまゝに追々に丈延びて、中夜即ち子(ね)の刻頃に至れば燈火全く針の如く細く長くなるものである、これを以て燈火の円形になりたる時を午の刻とし、また針の如くなりたる時を子の刻と知りて昼夜を知るとの答にてありしが、今の話の筍の丈は夜伸びて廻りは昼太ると云へるに符合するは実に妙と云ふの物無きとて、その老人殊の外に喜びしことがありましたが、これ等の事実に微してみましても真実の事は必ず一貫して居るものと見えます。
かやうに太陽天日に属する風火温熱の気も、太陰月球に属する水土冷湿の質も、この大地即ち地球及びその地球上に在らゆる人間を始め動物植物総てのものに関係して居る事の容易ならざるものであると申す事は、この話の事実に於て充分に証拠立てらるゝ事であります。
猶また延いて考へますに、前に申しました人の血液に血潮と申す称の有るは、これまた前に縷々(るる)申した通り、妊娠中に嬰児の肉体が彼の月経となるべき血にて温養育成せらるゝのみならず、その児の出産するも、また人の死するも皆潮汐の干満に関係のあること等を思ひ合せますれば、人間体内の血液も日々潮汐の干満と共に体内を巡環して居るでありませう。これ等は大いに研究の余地ある所と思はれます。
また太陽天日の事に就ても、世界の在らゆるもの何れも太陽の温熱に因りて生存して居る事は、床下の如き日光の及ばぬ所には寸草だに生ぜぬにて知るべきであります。これにて霊魂と肉体との梗概(こうがい)、またその霊魂は天日に属するもの及び天日と地球と月球との関係の概略等は大要解ったことゝ思ひます。
就てはこの霊魂と肉体とを天神より賦与さるゝ訳より、霊魂にも魂と魄との差別ある事等申し述ぶべきでありますが、余り長くなりましたからこの御話はまずこの辺にて結びまして、余は次回に於て申し述ぶる事に致します。
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