霊魂と肉体(1) -タマシヒの字義-
#00623 2019.11.8
(清風道人云、この「霊魂と肉体」は、宮地神仙道道統第二代・宮地厳夫先生が大正三年に一般の聴衆を対象として霊魂について説かれた講話です。 #0379【水位先生の門流(1) -道統第二代・方全先生-】>> )
霊魂(たましい)は我が肉体の中に宿りてこの一身を主宰して居るものでありますから、これ程我が身と密接の関係を有して居るものは外にはありませぬ。
してみれば我等人間に在りては、この霊魂のことは何よりも先に明白に解って居りさうなものでありますれど、事実はこれと全く反対にて、他の事柄の中には或は解ることがありましても、霊魂のことのみは解り難いと見えまして、その説き明かしをした書物は本邦は申すまでもなく、支那にも印度にも欧米の各国にも古来の久しき間に於て幾千部幾万部有るかも知れぬ程のことで、とても読み尽す事は出来ませねど、その中に於て多少は読みてもみましたが、各々自己の見る所を述べしに過ぎぬものにて、種々状々(さまざま)の説が立てゝありますから甚だ紛らはしくして、これが本当のことである、これが真正のものであると、容易に認むることが出来ませぬ。
また現代に於ても霊魂の論もあれば安心立命の説もありて、講演にても聴き論文にても見ますが、これで霊魂のことが真に解って居るであらうか、また弥々(いよいよ)安心立命が出来て居るであらうかと疑はるゝ所があって、眷々(けんけん)服従することが出来にくいやうに思はれます。
そこでこの霊魂のことは是非とも研究して明白に致したきものと思ひますより、年来考究の結果、確実に見る所が定まりましたから、こゝにそれを申し述ぶることに致しませう。
さてその霊魂のことでありますが、この説明をするには霊魂の本元と坐す天神(あまつかみ)の神霊(みたま)のことより説き明かさねば明白には解りませぬ故に、まずミタマの事を申し述べます。
このミタマのミは御の義にて賛美の尊び言であります。またタマのタは高(タカ)、立(タツ)、足(タル)、健(タケ)、宝(タカラ)、尊(タフトキ)など云ふタと同じくして、タの音は円満にして足満(タリミチ)たる意義を含みたる音であります。またマは山、島、隈(クマ)、浜、釜、または丸、正(マサシキ)、誠、全、祭など云ふマと同じくして、全く真の字の意義の音であります。
そこでタマと二音を合せますれば、足真(タマ)と申す意義の名となりまして、所謂(いわゆる)円満にして完全豊美、少しも欠陥無く宇宙に充実遍満せざる所無き真(マコト)と申す義の名となります。
かやうの訳にて宇宙間に於てこのタマ即ち霊ほど尊きものはありませぬより、その上に尊称のミを冠らせてミタマとは申すことゝなったものであります。
さればこのミタマは申すまでもなく全宇宙を御主宰在らせらるゝ大元の天神・天之御中主神の神霊に坐しまして、その神霊には御意識の在らせらるゝは勿論、イヅノミタマと申す全智とムスビノミタマと申す全能とを具有し在らせれて千変万化自由自在の御霊徳を施せられ、天地万有を御主宰在らせらるゝのであります。これが即ち神霊と申すものゝ御本体であります。 #0210【神道宇宙観略説(1) -宇宙の大精神-】>>
されば彼(か)の玉をタマと申しますのも、玉の円相にして充実透明なる状(さま)の、この天神のミタマの至精妙有にして宇宙に充実遍満せざる所無きに最もよく似たるものでありますより、玉をもタマと呼ぶことにゝなったものと見えます。
かやうの訳にて、神霊が玉に似て居るのではなくて、玉が神霊に似て居るより神霊の名が移りて玉をもタマと申すことになったものでありますから、これを取り違へますと本末を転倒する事になります故、これはよく心得置かねばならぬことであります。
そこで霊魂はその天神の大神霊(おおみたま)の一微分子を賦与されて我々の霊魂となって居るものでありますから、このタマシヒのタマは申すまでもなく霊(タマ)にて、シヒのシは風神を級津彦神(しなつひこのかみ)・級津姫神と称し、また風をアラシともツムジとも云ふ如く、シと云ふは風ことなれば、このシは即ち風であります。
またシヒのヒは申すまでもなく霊(ヒ)即ち火でありますれば、要するにシヒは即ち風火にして、タマシヒは霊風火と申す義の名であります。
就てはこれより霊魂は実に風と火とに違ひなきことを、証拠を挙げて御話致しませう。
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