戸籍時報連載『旧市区町村を訪ねて』2「守り抜かれた土地」埼玉県加須市〜北川辺町〜(文・写真:仁科勝介)
こんにちは。コンテンツビジネス推進部のMJです。
弊社刊行「戸籍時報」で、先月から始まった好評連載「旧市区町村を訪ねて」。
前回記事へ、たくさんの「スキ」、ありがとうございました!
好評の第2回、6月号に掲載の内容をカラー写真でお届けします!
今回は関東、埼玉県の加須市が舞台。まちの歴史に触れられています。
今後の連載も、ぜひお楽しみに。
『守り抜かれた土地』
埼玉県加須市〜北川辺町〜
埼玉県にはかつて,北埼玉郡が存在していた。市町村合併によって郡の名前がなくなったのは,2010年3月。騎西町(きさいまち),北川辺町(きたかわべまち),大利根町(おおとねまち)の3町と加須市(かぞし)が合併し,加須市になった。その中で北川辺町は唯一,利根川の左岸に位置している。現在も埼玉県の県境で,利根川の左岸が含まれているのはここだけだ。北川辺町は利根川に加えて,渡良瀬川にも挟まれた土地であり,それが県境にも影響したのではないだろうか。地図で見ても不思議だ。
時代は120年ほど遡って,明治35年。北川辺町が利島村と川辺村だった頃,北川辺町は消滅の危機があった。この土地は利根川と渡良瀬川に囲まれ,洪水が多発する地域だった上に,足尾銅山の鉱毒問題の被災地でもあった。渡良瀬川に流れ出た鉱毒が,氾濫によって農地を汚染し,大きな被害が出ていたのだ。しかし,洪水や鉱毒で疲弊する村に対して,国や県が取り組もうとした対策は,堤防を築いて村を守ることではなく,村そのものを渡良瀬川の水量を調節する遊水地に変えて,廃村にしてしまおうというものであった。住民への説明はなく,計画は県や国によって水面下で進んでいた。その話を知り,反対運動の旗手となって立ち上がったのが,足尾銅山の鉱毒事件の解決に身を捧げたことで知られる,田中正造であった。
田中正造は村を守るべく,村に滞在して人々を激励して回った。治水という政策の名目があったとはいえ,その一方的な計画に対し,住民運動は激しくなり,明治35年10月に開かれた合同村民大会では,1000人以上が集まった。そして,次の決議が採択された。
「一,県庁にして堤防を築かずば,我等村民の手に依て築かん。
二,従って国家に対し,断然納税,兵役の二大義務を負わず。」
すなわち,堤防による治水という訴えが認められなければ,納税と兵役の義務を拒絶するという固い意志だ。そして,国に背くこともいとわないこの決意が,最終的な計画断念の結果を導いたのであった。
旧北川辺町にある,田中正造翁の墓(全国に6か所あるうちの一つである。)を訪れた。墓は屋根に守られ,設置された看板の文面からも,村の偉人として,大切に語り継がれていることがわかる。今もなお,この地域には穏やかな住宅地が広がっている。東武日光線が走り,田んぼには空が映り,河川敷には野の花々が咲いている。あたりまえに存在しているように見える土地が,人々の意思で守り抜かれたものと知る。
守り抜かれた土地には誰かの思いが詰まっている。
仁科勝介(にしなかつすけ)
写真家。1996年岡山県生まれ、広島大学経済学部卒。
2018年3月に市町村一周の旅を始め、
2020年1月に全1741の市町村巡りを達成。
2023年春より旧市町村を周る旅に出る。
HP https://katsusukenishina.com/
Twitter/Instagram @katsuo247
本内容は、月刊『戸籍時報』令和5年6月号 vol 840に掲載されたものです。