
言語から考えるアニミズム
日本語学習の最初の方に出てくる「いる・ある」は、世界数多くある言語の中でも珍しいらしいケースらしい。
ドイツ語や英語では、それが生物かどうかで動詞を分けないからだ。
いや、生物かどうかだけではなく、駅前に走っていって
「あ~、よかった、まだバスいた!」
のような表現や、「烏は山にかわいい七つの子があるから」という言い方もあり、学習者を混乱させる。
それでも、「魚がある」「魚がいる」と言い換えることで、今その発言者が商店にいるのか、水族館にいるのかが分かる便利な言葉だ。
学習者がよく作文で間違えるので、今日は助詞「と」が出てきたついでに、「と」は名詞を数え上げるときにしか使えません!と言っておいた。
英語やドイツ語では動詞同士、形容詞同士、文同士でも、and/undが使えるので、言っておかないと、「食べましたと飲みました」「おいしいとかわいい」「いいです。と、たのしいです。」というような謎文が多発する。
名詞同士なら絶対に使えるかということ、これまた間違いで、
「父はトルコ人と50歳です。」
「私はベトナム人とドイツ人です。」(ハーフか、二重国籍)
などと言われてしまう。
この場合の名詞の接続には、「で」を用いるからだ。
and/undに比べて、「と」の守備範囲が狭いかと見せかけて、実は「と」には英語のwith、ドイツ語のmitの働きもある。
「友だちと遊んだ」というときだ。
しかし、これも言っておかないと「スマホとゲームをする」のような、友だちがいないんだね・・・という可哀想な状況が生まれてしまう。
with/mitは、生き物に対してだけ「と」と訳せるが、無生物は「で」となる。
「友だちと遊ぶ」と「友だちで遊ぶ」のニュアンスは私たち日本語話者なら分かるだろう。
「で」は無生物なので、友だちをおもちゃ扱いしているひどい奴、ということになる。
「いる/ある」と、この「with/mit」の「で」と「と」のように、日本語では生きているかどうかを判断基準にすることがある。
受身形を作るときも、英語やドイツ語であれば、「私はりんごを食べる」「りんごは私に食べられる」と相互関係が成り立つが、日本語においては後者はとても不自然だ。
誰も「あのりんごは私に食べられた」とは言わないだろう。
もちろん受身でも「食べられた」という言い方はある。
でも、そのときは「私が買っておいたお菓子を、子どもに食べられた」のようになる。
「食べられた」の主語は迷惑をこうむった「私」なのだ。
日本語は「生物」と「無生物」の間に線を引いている。
人間さまと動物の間に線を引かなくてよかったけど、命を無くした時点で、無生物になる(「重傷者がいて、死体もある」)ということは、「命」があるかどうかがポイントということだろう。
だから、物語で「あるところに1つのりんごがいました。食べられそうになったところを、命からがら逃げてきたのです。」と言われても、違和感はないのだ。
「いる」を用いられたときに、作者によってりんごには命が吹き込まれたのだ。
九十九年生きればものも神になるという「付喪神」の考え方、言葉にも魂が宿る「言霊」など、日本の文化はアニミズムが根底にあるのだと気付かされる。