日本ベッドの歴史(3):戦後の本社工場
1946(昭和21)年、日本ベッドは社名を「羽根工業社」から現在の商号「日本ベッド製造株式会社」に改めます。
戦後の住宅不足は著しく、戦災復興院(1945(昭和20)年設立の政府機関)の発表によると、全国での不足数は420万戸にも及んでいたようです。
日本ベッドは進駐軍を筆頭に、官庁、ホテル、船舶運営会などに製品をお納めしていました。
戦後、池上の本社工場
写真は戦後間もない頃、大田区の池上にあった本社屋です。
当時は、道路側手前が事務所、奥に工場が併設されていました。
こちらはマットレスの検品風景。左は創業者の宇佐見竹治です。
当時扱っていたスプリングマットレスは2種類。
「連結式スプリングマットレス」と「中袋式スプリングマットレス」、
いわゆる「ボンネルスプリングマットレス」と「ポケットコイルスプリングマットレス」でした。
カタログを見ると、この頃の製品は表地に区別がなかったようで、写真のマットレスも、どちらの種類であったかは不明です。
本社裏工場での製造風景
満足な工業力はまだない時代のこと。製品をつくる機械も、日本ベッド自ら工夫したものを使っていました。
こちらはマットレスの縁縫いをする様子。
既製のミシンは手に入りましたが、マットレスの縁を縫いかがるには使い勝手が悪く、オリジナルに改造して使っていました。
こちらは「マットレスフィラー(自動マットレス装填機)」、袋になったマットレスの表地の中に、中身を詰め込む機械です。
当時はとても珍しかったようで「東洋唯一の」とも謳われていました。
こちらは「ハンドタフティング」の様子。
今や世界でも稀な、マットレスの手仕上げ(ハンドタフト)構造。
ハンドタフティングは、わた、詰め物、コイルをしっかりと糸で結びつけるクラシックな技法で、ひとつひとつボタンを留め付け、手作業で仕上げます。
現在の日本ベッドの最高級マットレス「シルキークチュール」にもその技術が使われています。
1950年代に入ると、日本ベッドは本格的に国内では未開拓だったベッド市場に乗り出します。