サンタクロースの弁明

やあ、誰も彼も幼い頃から見知った顔ばかりだね。
さて本題に入る前に私の罪状について整理をしておこう。

一つ、この世全ての子供達にあまねく贈り物を届けるはずの私がその使命を果たさなかった罪。

二つ、私が贈り物を届けなかった処かあまつさえそれを横領した罪。

三つ、そしてそれらの罪により町の子供達の心を惑わせた罪でお間違いないかな、裁判長。よろしい。

まず一つ。
私は私の愛する者全てに対し贈り物をしたと自負している。まあ、待て裁判長。いいや、懐かしき友よ。フローレンス君。
では何故君の家の坊やに対し私が贈り物をしなかったのか、気になるかもしれないが至極簡単。私はあのガキが気にくわないからに他ならない。端的に言って嫌いの一言だ。

フローレンス家の坊やは今年七つになるがその目は死んだ魚のように腐っている。去年の話だ。私が他の愛する子供と同じように贈り物を枕元に置いてやったにも関わらず翌朝なんて言ったか覚えているだろうか?
“パパありがとう”だ。
サンタの存在なんて端から信じちゃいない。そもそも君は、ああ親愛なる裁判長よ、そんな大層な生業をしているのだから経済的にサンタは不要だろう。にも関わらずだ。君は私に謝罪をする事もサンタの存在を子に教えるでもなく、このような裁判を起こすのは逆恨み以外の何ものでもない。
サンタは慈善活動ではない。単なる自己満足な活動に過ぎない。サンタは私を信じない者、私を必要としない者、私が好まない者の前に決して現れる事はない。

そして罪状の二つ目。
私が本来子供達に贈るべき物を届けない処か横取りした罪。その証言人は、ああ君だったね、トナカイ君。
確かにあの子供は極東の作家が書いた冒険小説を欲していた。その事は私の認める所だ。子供がここじゃないどこか遠くへ思いを馳せる行為は自然な事だ。その事実はかつて幼い時代を経験したこの場の紳士淑女諸君とも心同じくする所だろう。
だがあの子がどうしてここじゃないどこか遠くを夢見たのか? その理由までは御存知だろうか?
あの子の父親は新下層階級、つまるところ雇われの身として朝から晩まで労働漬けの所謂“ブラック”と呼ばれる階層だ。総じてその階層民は己自身の時間は勿論、家族との時間、息子や娘との時間もまた犠牲にして労働に費やしている。人々はそれを美徳と受けとるがそれは大きな間違いだ。生きる為の労働が労働の為の命にすり変わってしまっているのだから。
さて諸君、そんな憐れな父の子に与えるは極東の冒険小説で本当に良いものか今一度考えて頂きたい。
あの子に必要なのは孤独を埋める為の冒険小説などではなく父との時間、引いては家族との時間ではなかろうか。
確かにトナカイ君。これは私の独断だ。君には君の正義があるだろう。しかし同時に私には私の正義がある。確かに小説の代金は私の懐にあるが、代わりに憐れな子とその父親に家族の時間という禁忌にも等しいものを与えたのだ。小説代というハシタ金でだ。これは私による自己満足活動故の結果だが、諸君等の愛する慈善活動とも同義と言えよう。
その証明に現に原告人席に憐れな親子はいないのだから。

そして最後に三つ目。
私が幼い心を惑わせた罪だ。
確かに私の行いにより多少なりとも傷を負った者がいるのだろう。だがそれの何が悪い。つまる所その傷を負った憐れな彼等彼女等は、私を必要としない者達なのだ。精神的にも経済的においても。だからそれは不要な傷と言えよう。そして不要な傷を負った要因は大人達が安易に自らの役割を放棄しサンタという存在に依存をしたからだ。
ここで私という存在についてはっきりさせておこう。サンタとは子供達に夢を与える存在などでは断じてないという事だ。サンタとは救済の象徴であり、世の理不尽に抗えない子供達にささやかな救いの手を差し伸べる存在なのだ。決して万能な便利屋などではない。

以上が私による弁明である。
一体私は何の罪にあたると言うのか?
世に蔓延る暗黙の了解、通俗的な道徳心により私は死ぬべきなのか、今一度聡明なる陪審員と親愛なる聴衆に考えて頂きたい。
私が裁かれれば後任のサンタはどうなるだろうか? 萎縮してしまわないだろうか? 自身の信念と誇りを持って聖なる日に骨を折る事は出来ようか。答えは言うまでもない。その先にあるのは民衆の言いなりになる操り人形。道化師となんら変わる事のない存在だ。

最後にもう一度言おう。
どんな願望を抱くかは各々勝手だがそれを叶えるかどうかは私の勝手だ。
サンタクロースである私を信じない者、私を必要としない者、私が好まない者の前に決して現れる事はない。そしてサンタクロースは民衆の言いなりにはならない。
私の弁明は以上である。

ーー
そうして世の中には民衆の願望を全て叶えるサンタクロースが現れたのだとさ。

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