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私的働き方改革 ものを書くこと
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私的働き方改革 ものを書くこと
ながらく名実に差がないと感じているので、「ブラック企業」というタイトルをつけて、惹きにしていましたが、
自分の気持ちの(緩やかな)変化に合わせて、「私的働き方革命」というタイトルに変更しております。
こういったお願いは、主義というと大げさ、私の好みから外れていて、嫌なんですけど、ご留意いただけると嬉しい。
noteで「こうした方が良い」とコメントをいただいても、ほとんどその通りには出来ないので、困ることがあります。
私の「ブラック企業で働いている」シリーズでは、確かに事実がベースですし、読んでいただく人も、こ自身の働いた経験が想起されたり、善意からアドバイスをいただくのも、とてもありがたいです。
ただ、ここで少し穿ったことを申しますと、読者様におかれましては、「私がすべて事実を書いている」という根拠が、どこかにございますでしょうか?
私が嘘をつかない不器用で良い人だという確証がありますか?
(世にも奇妙な話風)
確かにnoteにおきましては、事実と気持ちの整理という目的に作用していますが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、私はnoteで「誰かが読むこと」を意識しています。
どう受け取られるか分かりませんが、読者の皆様が「気持ち良く」読めるようには書けていません。(書いていません)
「何か」を感じてくれたら良い、とは思っています。
そして、無責任甚だしくも、その感じていただいた「何か」に対して、私は責任を取りません。
「日記」というタグをつけているからと言って、「△△に○○と言われた、ふざけるな!」と、局所的なワンシーンを切り取り、呪い日記のようにはしないよう、意識しています。
と言っても、ある程度の事実をまとめて提示している、というだけで、「切り取り」には違いないです。
少し話を変えると、私は絵や写真が好きです。写真でなくても、文字より、絵の方が、あるいは、より事実を正確に伝えることが出来る、ツールとしては優れていると思います。
けれど私は、言語をあやつり、言語で、事実を伝えることに挑戦したい。ジャーナリズムの紛い物みたいな気持ちがあると思っていただいて間違いないと思います。
絵と言語の最大の違いのひとつは、解釈に正誤が在るか無いかだと思います。
「絵」ならその見方に正誤は無いと言って、一般的な雑談程度なら差し支えは無いと思いますが、文章は違います。
文章を書くということに素人でも、誤解を与える表現という程度で著名人は叩かれます。
私は「綾な」「彩な」という表現が好きです。「綾な」というと、人それぞれ色彩豊かな風景が目に浮かぶのでしょうが、実際紙に表すと、それはまとまりなく見る人によっては「汚い」とも言える風景も多いのではないか、と想像します。
強調色、ビビットカラーが多すぎて、何が伝えたいかサッパリ分からなかったりするのではないでしょうか。
私が好きな色は、
臙脂や鴇色、
うぐいす色など、
星霜を感じさせる「くすみ感」があるもの、地味な色が多いのですが
絵画は、全体の中でその色がどんな位置にあるか、というのも見られるものと思います。
私は綾な風景の中に地味な色を見出だして、「私は見つけた」とほくそ笑みたい、独りよがりな楽しみ方をすることが多いように感じます。
それと違い、自分の好きな色を見つけ出したら、それがもっと目立つ構成に仕立て直したいと思う人もいるでしょう。
また別の視点から書きますと、私の人生など取るに足らず、見るに値しないものです。平々凡々。
けれど、私にとってはかけがえの無い大事なものです。
ここで、物を書く人間には「大きな矛盾」が生まれます。
それは、物を書くのは、必ず誰かを傷つける行為だということです。
人は想像力たくましい生き物、日々の生きるうち、誰かを貶めて相対的に自分を慰めるという行為で、心の平安を保つことがあります。
特にSNSに関して、善悪とか民度がどうこうというのは、不毛、ナンセンスだと思っています。
物を書いていると、必ずと言って良いほど「身に覚えはないけど、なぜか自分は被害者だと主張する読者様」に遭遇した経験が、誰しもにあると思います。
自分が被害者だと主張する人は、ほぼイコール、自分の主張やストーリーを、オリジナルかつ真実だと信じて話す人、でもあるようです。
私自身が攻撃対象になったときに、相手方の目的は謝罪や理屈で屈服させることで、自己防衛のために全面的に認めるわけにはいかない事情が生じます。
話を戻すと、読者さま・すべての価値観を認めて包括するために、いちばん理に叶っているのは、実は沈黙すること、となるわけです。
書かない。
それが、合理的な正しい姿勢です。
もしくは紙の日記とか、完璧にクローズな場に綴るとか。
では、なぜ、書くのか。
「他人様を大事にしたいので、人が傷つくような文章を書かないようにしている」というのは、物書きの方便、もしくは勘違いだと思います。
なぜなら、
「戦時中に可愛がっていた犬を食べる。 特攻武器にする」
こういうひとつの文章でも、人は傷つくからです。
事実は知らなくてはならないことでしょうか?
見てみぬフリをする自由が、人間にはあると思っています。
既に著名な作家なら、どんな屁みたいな理屈でも一定層に受け入れられたりもしますし、逆にいえば無名の作家は、他者のことばを借りてすら、受け入れられない事があります。
世の中はそんなもの。
世の中に真実や普遍のもの、誰が見ても同じ事象なんて、ほとんど無い。
どんな文章を与えても「好きなように読む」であろう読者に対して、自由を保証するのは物書きの定めで、書いたたもので人を傷付け自分も傷つくという
物を書く人間の目的は一体どこにあり、情熱はどれほどのもので、なぜ書くのでしょうか?
物を書きたい人間にとって、書くことは衝動であり、当人にとって命題ではあります。けど、そこに理屈をつけて他者にアピールすることはあまり重要ではありません。
書きたいから書くとしか言えない。
その衝動をどれだけ読ませるものにするか、皆、試行錯誤していることと思います。
うまく まとまりませんが、こうした内在論理があるという自己開示、そして、お願いがあるのです。
登場人物に実在のモデルがあって、ストーリーのなかで私の敵役というキャラクターがあって、さらに読者さまが「私もこの人嫌い」「この人は間違っている」と共感してくださっても、あまり悪し様に言わないであげてほしいのです。
「あげて」というのも上から目線で、ちょっとどうか?と思う表現ですが。
取るに足らぬ私ですが、一所懸命自分の人生を生きて、人と関わっています。
その中で私的には「嫌いな人」であったとしても、一人一人が綾な人生を生きていると思います。
「私は」好きじゃない、「私は」嫌い
というのを書いているだけで、たとえば家庭では夫が、職場では、課長や部長、社長が間違っているとnoteで証明したいわけではなく(そんなことをする意味もない)、バカにしたいわけでもなく、
彼らがバカだと第三者に保証してほしいわけでもない。
むしろ、そうされると戸惑うのです。
「つまり登場人物Aさんは、バカなんですね」というようなコメントをいただくと、実際にそのモデルと関わりがある身としては、実在するAさんの印象を私のことばだけで歪めてしまったような背徳感がある。となると、いや、私はそう感じたけど、貴方は違う印象を抱くかも知れないですよと、弁明することが義務のように感じられます。
と、こういったジレンマを生まないためには「書かない」のが正解というわけで…。
なぜ「悪口」を書いて皆様に見せるのか、と問われたら、記述の自己矛盾にぶち当たり、思考はめぐります。
世の中には「ノンフィクション」というジャンルはありますけど、私が事実を書いていようがいまいが、皆様方には始めから「創作である」という認識を持っていただけると、非常に楽なのです。