世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の暗部
作者笠井潔さんによる
探偵 矢吹駆シリーズ
バイバイエンジェル
サマーアポカリプス
薔薇の女
に、続き、哲学者の密室 読了しました。
死の哲学 存在「ある」エトスとイリヤ、1945年ユダヤ人絶滅収容所と、1970年後半フランス パリ ブローニュの森にある富豪の家 通称「森屋敷」で起きた
2つの三重密室殺人事件
の真相を巡り、重層な哲学談義が繰り広げられます。
はい、こちらの矢吹駆シリーズ、面白い上になかなか難解で、5年前くらいに読んだはずの前作を覚えていません。
結婚の引越にともない、本を売るか処分かしてしまった気がする。
私のアホーアホー
安倍晋三元首相襲撃事件で、犯人が供述した動機・家庭崩壊の原因となった統一教会への復讐が、波紋を呼んでいます。
自民党員の癒着が疑われるたび、都度説明の会見をするとし、調査は行わないと発表しました。
これに対してひろゆき氏は闇に葬られる、放置ということばを使っていて、心情的に言いたいこと、意図は汲めますが、政治家の決定は全うとも言え、難しい話です。
まずひとつに、安倍晋三元首相襲撃事件と統一教会に、直接の関わりがないということです。
国選であれ、犯人の弁護人が精神鑑定を求めるのではないだろうか?「責任能力が無い」を理由に減刑が求められる人間のいうことを、警察はどれくらい真面目に聞かなくちゃいけないものでしょうか?わかりませんが、結果がどうであれ、犯人の供述を額面通りに受け入れまるで容疑者のように統一教会を調査するのは、まず有り得ないことでしょう。
ふたつには、信仰の自由を侵害する違憲というのにも、一理があります。
私は今回の件を仕方ないと思いますが、統一教会をそのままにしておくことは、決して良いとは思わないです。
大学で流れていた噂にやると、彼らのやっていること、寄付金を募るというより、若者の扇動や搾取、果てに幸せを破壊しているように感じるからです。
私が大学にいた頃より、更に10年20年ほど遡ると、部活のボックス棟を占拠したり、なぜか統一教会の信徒になってしまった学生がいて、止めようとするも結局自主退学し消息がわからなくなった、別の学校では名指しで「勧誘に注意」という警告の張り紙がしてある、という話を聞いたことがあります。
信徒ではない私の印象は、ただ薄気味悪い、です。
ただ、安倍晋三元首相襲撃事件からの衝撃で、国家権力が調査に至らないのが残念かというと、別にそうではなく、多額の寄付金をどうしているのか?統一教会と自民党の癒着があっても、その利益が自民党内ですら均等かというと、そんなわけもなく、不満を大きく膨らませる出来事となったのではないかと思います。
日本の保安局は、日本共産党と統一教会もマークしているらしいです。
けれども、統一教会が1930年代の大本教や、1980年代オウム真理教と違って、なぜ(表向きには)なんの取り締りを受けないか?というと、つまり日本国の脅威になっていないからですね。
世知辛い世の中で胸糞悪いことですが、統一教会が食い物にしているのが、庶民ということです。資金を集めても国家転覆や革命を謀っているわけでも無いのじゃないか?
先のことは分かりませんが。
私が気味悪く感じるのは、なぜ統一教会にドンバまりする人がいるのか、ということです。キリスト教の宗派のひとつといいますが、日本の国民性とキリスト教は親和性がよくありません。
ざっくり言うと、キリスト教は一神教で輪廻の思想が無いからです。
私は無宗教ですが無神論者ではありません。そこまで知識がないというのが大半の理ですが、この先なにかの宗教に入るのなら、おそらく仏教徒になります。
死生観がナチュラルに仏教徒だからです。これは別に私が特別なのではありません。
結婚式にウエディングドレスを着て洋風にする若者がどれだけ増えても、葬式をキリスト教式にしてほしいという日本人は少ないはずです。
宗教はファッションではなく、文化だからです。文化は人を養い、そして死生観に密接に関わっているものでもあります。
異文化交流として、ある宗教の儀式に興味関心を持つことなできても、「信じろ」と言われたら難しいのではないでしょうか。
そこで気味が悪いのは、統一教会の教義です。何人もの日本人に、生活を圧迫するほもの寄付金を吐き出させることができる教義とは?
投資詐欺とは違うんですよね。欲を刺激するのなら、リターンがありますよと囁く、この方が説得力があり、自分でも騙されるのならコッチと思います。
主人と話したところによると、主人もこの事件に興味をもっていつつも未だ教義は読んでいないけれど、神を信じることとか戒律を守ることに、それほど意味はないのでは、とのことでした。
統一教会は勧誘にあたり、社会に対する「無力感」これに共感を寄せていくことで、教徒を増やしているのではないか、と。
確かにこれは、学生運動が盛んだった時代のように熱いものがないのに、若い世代や自ら革命を起こすことはできない社会的弱者がハマってしまう構造と理屈が合っています。
今のサービス産業を見ればわかるように、人はワクワクするものにお金を出します。確かにせっせと消費生活をすることでワクワクを得る社会構造は、過渡期を迎えている資本主義社会とはいえ、かわっていません。
けれど、自分が何か政治的運動をすれば社会が変わるという夢を持つのは、難しくなりました。
そういった無力感が政治への「選択的無知」を選ばせます。選ばせます、という他力本願が気に食わない人もいるでしょうが、私にもそのきらいがあります。
テレビやネットにたくさんいる政治評論家は、じゃあなんで政治家にならないんだろう、と思いますし、自分が働きかけている実感が希薄のまま、あの政治家は嫌だ・あの政治家は働かない、と、文句をつける材料をどれだけ探しても不毛なだけなので、それならまだ一生懸命働いて税金をおさめて、あとは自分が楽しめることをする、という人生のほうが有意義な気がしますね?
ここにジレンマがあって、結局情報だけは多い世の中ですから、優しい人ほど、自分だけ幸せを追求する人生に何か意味があるのか?と、割り切ることにも罪悪感を抱くのですね。
けれど、自分が共感で傷つくような情報だけシャットダウンするのも不可能ですし。
そこに統一教会の人が、「わかりますよ」と、こうくるわけです。
キリスト教は基本、私財を寄付して質素倹約することを良としています。
お金を寄付すれば、幸せになりますよ。たとえば、環境汚染とか、自分の手でなんとかできなくとも、お金を喜捨して祈ればなんとかなりますよ、と、こういう囁き方をするんじゃないでしょうか。
ウッカリでも入教させてしまえば、簡単だと思うんですよ。
「熱心な教徒もいる」団体から抜けようとするとき、抜けるということは教義を否定することであり、全国に「敵」ができる、そのことを示すだけで、教徒には大きなプレッシャーになるはずです。
中年のおじさんが「俺のバックには怖い人がついてるぞ!」というミエミエの恐喝をするより、よほど恐ろしいです。
宗教団体の寄付ということで、非課税だし、団体の決算がザル勘定でも気に留める人は少ないだろうし、小市民としては、なんだから吹き溜まりのような不透明さで不安なので、せめて監査役のようなオブザーバー、第三者を入れてほしいのはやまやまですが、難しいのでしょうね。
ほんとに、これをきっかけに事件が増える、とかでもしないと。
案外犯人には、上記のような狙いがあったかも、と思います。