隣のネズミ-4
私には、ある光景が脳裏にこびりついている。直観的にネズミを可哀想だと思ってしまう。祖父母の農家で、ネズミが殺されるところを見たことがあるのだ。トラウマというほど大したものではないが、寡黙な祖父が、上がり框にうろついていたネズミを叩き殺し、ささくれ立った無骨な手に、ハンカチ一枚だけを乗せ、お腹が破れて赤黒い内臓がはみ出ている死体をつまみ上げ、ぽいっとゴミ箱に捨てていたのだった。
その頃、豚やウシがどんな風にと殺され食卓に並ぶか本で知ったばかりの私は、生き物をありがたく食えという教えに馴染めなかった。可哀想だと思うものは可哀想だ。両親は、就職してからずっと都会暮らしだったから、動物と命の距離が遠い私の感覚が、それほど珍しいとは思わない。ただ、感謝でもなければ矛盾した感情であることには間違いないだろう。動物を死に追いやっているのは、確実に人間でありながら、死ぬのは可哀想だと思うんだから。ネズミの殺害を見た私は、台所からキッチンペーパーをたくさん切り取り、それをゴミ箱のぶよぶよとした塊に乗せ、雪玉のようにまるごとつかみ上げ、庭に植えてある紅梅の根元に埋めた。良い事をしたような気分と、悪い事をした気分と、手に残る生暖かい感触の不気味さと、いろんな気持ちがごっちゃになり、ドキドキと心臓が鳴っていた。
感謝なんてしなくても、生きて動物を殺すことを何とも思わない人たちの方が、現在によほどうまく適応できている。
「坂田さんはネズミだと思う事にする」
私は旦那に宣言した。
「え、なんでネズミなの?」
と、旦那は問い返した。
「同じ人間だと思うから始末が悪いの。人の幸せをかじり取るネズミ。嫌悪感はある。けど、不幸になるのは可哀想だから」
「へえ、なんかよく分かんないけど」
自分でもよく分からないが、たとえば上がり癖のある舞台俳優が、観客を人間ではなく物だと思い込もうとするように、私は自己暗示をかけることにした。坂田さんの姿形こそ人間だが、実際私のネズミへの印象と、坂田さんへの印象は、よく似ていた。
それとは別に、正田ひろ子さんが高瀬さんの事をどう思っていたか、気になっていた。坂田さんは、正田さんに高瀬さんの悪口を吹き込むことは、全く無かったんだろうか。
そんな下世話な好奇心から、私は自治会合の代表を名乗り出た。
(自分でストレスをもらいに行っているようなものかも?でも、虫でもネズミでも、いると分かってもどこにいるか分からなかったらソワソワするものだし)
体に秋の夜風を受けながら、二か月ぶりの集会室へ足を運んだ。
高瀬さんが辞めたことを会合で告げたが、坂田さんと正田さんにはあまり関心が無いように見えた。けれど、会合を終えると、二人は珍しく私に近付いてきた。珍しい?初めてかも知れない。
「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど。高瀬さんって私たちの事何か言ってた?」
いじめた自覚でもあるんだろうか、と、私は問い返した。
「高瀬さんですか?いいえ、何も聞いてないですけど」
「そう?トークアプリが退会になってるから、私たち、何かしたかと思って」
私「たち」ってなんだろう。坂田さんと正田さんの人格が融合しているかのような言い方だ。
「喧嘩でもしたんですか?」
さらに問い返すと
「やだ、いい大人がするわけないじゃない」
と、一笑に伏された。喧嘩の代わりにつぶやきアプリで愚痴を書きまくるのが、大人気のある行動なのだろうか。
「坂田さんのことは、面倒見が良い人だと言っていましたよ」
なぜ、高瀬さんの発言を聞こえ良く言い換えてまで、坂田さんを喜ばせるような事を言ったのか。ネズミの反応を確認したいという、知的好奇心のようなものかも知れない。
「本当?まあいろいろ話聞いてあげたからね」
彼女は嬉しそうだった。不思議な事に、正田さんは、坂田さんの斜め後ろでニコニコ笑って立っているだけで、何も言わない。
「あの人実はなんか病んでるっぽかったからね。別れた奥さんに未練があったみたい。まだまだこれから子育て長いし、前向きなさいって言ったんだけどね」
高瀬さんと同じくシングルで子どもを育て上げたはずの正田さんは、何も思わないのだろうか、と思い、水を向けた。
「それで、正田さんと二人で励ましてたんですか?」
正田さんは目を丸くしたが、すぐに応えた。
「私の子供があれくらいの頃、一人で子育てするのって、もっと大変だったわよ。今の人たちは結構恵まれてると思うわ。だけど・・・大変だって言ってたら、大変としか思えないよね」
今度は私が目を丸くする番だった。自分が苦労したなら、その分だけ自然と他人に優しくなるものかと思っていたが、どうやらそればかりじゃないらしい。「同じくらい苦労」しなければ、嫌だと思うこともあるらしい。けれど、自分の人生しか測る物差しが無いのに、他人の苦労を正しく測ることができるんだろうか。それは、自分への戒めにも言えることかも知れないけど。
「ね、人生理不尽な事ばかりだし、歯食いしばって耐えないといけないのよ」
坂田さんは、どうしてこんなに。小さくなって、隠れていれば、誰にも気づかれないのに。誰かがその気になれば、叩き潰されるような小者なのに。人を煽るのだろう。
「なるほどですね」
「・・・やっぱり悩んでいたのかな。高瀬さん、なんで子供会、辞めちゃったの?」
「仕事が忙しくなったって言っていました」
笑顔なんて作れるわけがない。これは、高瀬さんじゃなくても、私は坂田さんが嫌いだと気付くだろう。
「・・・連絡先は知ってるの?」
坂田さんはニコニコしていた。さっきのお世辞がまだ効いているのかも知れない。
「さあ、知りません。子供会のグループラインも退会されましたから」
「そうかあ。まあ逆に辞めて良かったかもよ。変な趣味があったみたいだし」
まだ言うのか。たかが女児向けアニメを見るぐらいで、変態扱いだ。すぐに後悔することになるのだが、瞬間的に高まった反抗心により、私はつい、言ってしまった。
「じゃあ、失礼しますね。『えりえりさばくたに』さん」
その瞬間、坂田さんの笑顔は凍りつき、正田さんは怪訝そうに坂田さんを見た。
何か言われる前に、すうっと靴を履き集会室を出た。秋の夜風は心地よかったが、心臓はバクバクと脈打っていて、私はまた、ネズミの死体を埋めた頃のことを思い出していた。
冬休み間近のある日、マンションのエレベーターで坂田さんと一緒になった。彼女をハンドルネームで呼んでから一月ほどは関わりは無かった。気まずさから避けていたというわけではなく、自治会合は一か月に一度なので、実際に関わりがなかったのだ。坂田さんは、自ら私に声をかけてきた。
「あの時はごめんなさいね。高瀬さんと仲が良いって知らなくて」
その後すぐに、坂田さんはつぶやきアカウントを「諸事情によりアカ削除します」という投稿を最後に、本当に削除していた。けれど一週間も立たないうちに、再度同じ名前でアカウントを作成していた。
どうやら、フォロアーとの交流を断つのが惜しかったらしい。固定のつぶやきには「前アカは、嫌がらせを受けたので削除しました」とあった。
どうやら、私が見たのは高瀬さんへの愚痴つぶやきだけで、私自身への陰口は知られていないと思っているらしかった。
「いいえ、別に気にしてないです」
そう、気にならない。全く気にならないわけではないから、わざわざ坂田さんのつぶやきを追うのだけど、坂田さんはこういう人だし、私も坂田さんが嫌いだってことを自覚している。だから気にならない。
「私も、大人げなかったと思います」
と、付け足した。なぜか、坂田さんを「坂田さんのまま」にすることばを選ぶ自分には、違和感を覚えた。
軽い雑談で、私から朝の習慣を聞き出した坂田さんは、藪から棒に言った。
「ねえ、朝のお見送り、私がしてあげようか?」
「は?いやいや、そこまでしていただくわけには」
「フルタイムだと、長期休暇中はデイサービスの運営開始時間が遅いから困るってことでしょ?私の方が朝はフレキシブルだし。」
フレキシブルって、ただのパートでしょ!と言いたくなったが、吞み込んだ。
「いや、ホントに」
ねえ?まーくん?まーくんはおばちゃんと一緒に行くの嫌かな?」
「どっちでも良い」
興味なさげに言うので、この子はもう人の気も知らないで、と思ったが、まさか怒るわけにもいかなかった。
固辞したが、坂田さんは執拗だった。
「迷惑なんてことないよ。お互い様だもの。」
「いやいや、ホントに」
「水島さんって、長期休暇の間はテレワークしてるんでしょ?こんなこと言いたくないけど、まーくん怒る時の声聞こえてくるのよ。早くしなさいとか、なんで準備してないの、とか・・・あんな風に言わなくても良いのにって。ねえ?ごめんごめん。でも、子育て大変なの分かるからさ。時間に余裕出来た方が良いでしょ?」
まるで用意してきたかのような理屈だった。用意していたのか?
「いや、それはそうかも知れないけど。だからって」
「旦那さんにも相談してみたら?じゃあ」
半ば強引に、この件を「保留」させられてしまった。なんなの?
一応、まさか「じゃあお願いします」とは言えないよね、というつもりで旦那に相談してみると、
「へえ、じゃあお任せしてみようか?助かるね」と言う。
「いや、何考えてるの?坂田さんよ?」
「え、そうかな?子供会じゃ結構保護者の間で送り迎え当番みたいなの回している人もいるみたいだし、サークルじゃなくて自治会の人だからダメってことはないんじゃないかな」
「僕、どっちでも良い」
「まさ は黙ってなさい」
そういいながら、きっちりとベランダのガラスが閉まっていることを確認せずにはおれなかった。
「モノは試しでさ。もしやっぱり無理ってなるようなら、断れば良いんじゃない?行政のチャイルドサポートも、結局日が合わないし使用しづらいって言ってたじゃない」
旦那も勧めてくる。要は、私の負担が減る分、自分の負担が減ることを期待しているに違いない。やれやれ、どいつもこいつも。