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ブラック企業に勤めて 客観的な意見


忙しい朝の時間が終わりました。
明日はお弁当です。

鳥は冷酷に見えるほどプラグマティックな種類も多いけど、私は鳥が好きです。
アオサギも一所懸命に生きている。 (目付きがヤバイけど)

ブラック企業に勤めて 客観的な意見




ブラック企業に勤めていて、何かおかしい、何か変えたいと思ったとき、同僚、友人、家族、労働基準監督署、きっかけを掴むために、行動のきっかけにするのは自然な行動と思います。

この中で、私は「客観的な意見」というものに、フラストレーションを抱えていました。

労基署の是正勧告を受けて悪態をつきながら対応する、請求権を放棄しなかった者には、報復的な低評価を付ける、こういったことは、今はまだ箝口令が敷かれている状態なので、誰彼無しに明らかにはしていないという面はあるのですが、決して私を貶める意図の無い「客観的な立場からの意見」、しかも社内にて意見を伺う方が、「二尋さんが大袈裟に騒いでいるだけじゃないの?」と捉えられる事が多かったからです。

一連の話を聞かせている主人は、此度面白い意見を言っていました。

「客観的な意見なんだよ」と。

客観的な意見とは、ある側面から見れば「正しい」意見だという認識だった私は、「客観的な意見とは?」と、概念を聞いてみました。

それは「自分の知見を元にした意見なのだ」というのですね。感情ではなく。

なるほど、と思ったんですよ。

繰り返しますが、客観的な意見とは、ある側面から見れば正しい意見なのだから、意見を求めたものとして、意を汲まねばならないと思っていたんです、

けど、それだと自分の意には沿わない二律背反が度々起こるんです。

客観的な意見を言う側ですら、「自分の意見は自分の立場からすれば、正しいものだ」と。

正しいと言うことばを使わずとも、自分ならこうすると、確固たる信念を持ったうえで言う人も多いと思うのです。

そうではなく、客観的というのは、あくまで、その時点の、自分の知見をもとにしているが、なるべく感情を廃した意見というだけで、つまりね、何が言いたいかというと、客観的な意見だからといって、相談者にとって、合ってるかというと、実は「全く間違ってる」可能性があるのね。

客観的というのに「すべての事実や関係者の関係を汲む」という前提が無い限り。

この場合で言うと、私はお世話になった上司や他の人たちの考える労働組合のイメージが古いんじゃないかという違和感があり、さりとて、まだ何も決まっていない中「古いのでは?」などと言うわけにもいかず「私の事を心配してくれているんだろうけど」とモヤモヤしていたけれど。背中を押してすらもらえないことを、自分の信用の無さだと、これまで働いていたことが虚しく悲しかったけれど、そうではなく。

私が職場で経験した事はもちろん、私が自分の身を守るために調べた知識が、相談した人に、一度で全て伝えられるわけじゃないのだから、仕方ない。

確かに行動を起こそうとするものは、誰より「感情的になる可能性」があるのだけど、「他人」は悪意さえ持たなければ、その意見が「客観的」でいられることなんて、当たり前なんですよね。

前提とするまでもないこと、というか。

感情移入しやすい人もいるけれど。むしろそちらの方が貴重な特性かも知れない。

行動を起こそうとする人間、主体は、なるべく理想の結果に近付けるべく、一時の感情に支配されるのは良くないのだけど、「許せない」という感情が行動のベースなら、復讐を止めることも、客観的ながら非常に無責任な意見と言えるわけだし。

私が求めるのは、そんな大それた事ではないけど。事態は刻々と変わっていて、自分が他人より優れている自信なんて無いから、独りよがりの恐れを完璧に克服したわけではないけど、「客観的」の意味を認識し直したことで、いただいた意見通りの事をしようとか、ちょっと汲もうとか、頓珍漢な義理は無くなりました。

中には自分の意見通りいかないこと、意見を聞かれたのに、その逆をいくような行動を取ることに、不満を覚える人もいるかも知れないのだけど、それはそのくらいの器量の人という事だし…


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