見出し画像

義父の人生の終わりに立ち会う



義父の人生の終わりに立ちあう




「私は私の死を死ぬ」

笠井潔さんの矢吹駆シリーズ「哲学者の密室」という本で読んで、矢吹駆という探偵は、哲学者、宗教家・沙門みたいな人です。何の教えにも帰依していない不信心者の私みたいな俗物が読むと、よくわかんないんですよね。推理小説としてはとても面白い。けれど、私は私の死を死ぬ、という表現の必然性が。

私は死ぬ、では、なぜ、いけないのか。

今もこの言葉の意味はよく分からないけど、「誰かの死を死ぬ事が出来たら」という淡い望みなら、ある。自覚するようになりました。

義父と知り合ってから十年にも満たない。結婚したての頃、夫と一緒に家から帰ると、義父母が来ていて、義父がリビングの私のパソコンを起動させて、いろいろ質問してきたときには、内心ちょっと驚いた。

私もだいぶ緩い性格なので、到底怒るほどでは無かったですが。後で義母から謝罪のメールが来たときの方が、気を遣った。

薬剤師の義父は、戦前の富山に生まれ、陸軍将校に憧れ、薬剤師として70歳まで働き続け、兄弟を見送り、海外旅行に行きたいとカナダに行きお土産を寄越し、80を過ぎてパソコンと絵を近所のカルチャーで習い、二度癌の手術を経て、薬のせいで自分は具合が悪いのだと愚痴をこぼし、今、生涯を終わろうとしています。

いつでも楽しんでいるように見えました。あまり、他人に気を遣う性格ではない。どちらかというと磊落な性格が、私も老後はこんな感じが良いなと、好感を抱いていました。

つい先頃、具合が悪いから絵画教室を辞めた、と義母から聞きました。高齢者ばかりと聞いていたから、私は生涯「お休み」で良いじゃないか、と。

そんな風に「終わり」を自分で決めてしまうから、加速度的に具合が悪くなったんじゃないか、と。

「勿体ないですね」とだけ義母に言い、内心、そう感じていました。

私は義父の死を死ねないから、自分の「希望」を投影したのだと思います。義父の好奇心の幅が広く、夫の実家の本棚には、発達障害児についての他、人生の最後についての本が、チラホラと増えていました。

義母から「歳を取るのは情けないことだ」と義父が言っていた、とだけ聞きました。夫ではなく、私が直接義母から聞けるのは、そのくらいなのです。

私は、義父がいつでもイキイキしていて、生涯楽しみを見付けていくのだろうと思っていたので、いよいよ終わるのかというときに、自ら人生を畳むような行動を取ったのが、意外で、哀しかったようです。

けれど、「情けないことだ」と言った義父、情けない事は嫌いなわけですから、いよいよ具合が悪いときに、カルチャーを辞めるというのは、義父にとって当然の行動だったかも知れません。

祖母と祖父が亡くなった時、それぞれ私はまだ自分の生活に精一杯で、葬式の時ですら、それは生活のほんの一部に過ぎず、誰かの死によって死を考える、生を考えるということはありませんでした。

その儀式を、なんだか不思議な寂寥感と共にこなす傍観者でした。

義父が行く時にもまた、私はなかなか薄情な意味での傍観者だと思うのですが、昔は感じなかった何かがあるような気がします。それが大事なものかどうかまだ分からず、むしろ「無い」方が楽なのかも知れません。

夫の育ててもらった恩や感謝が伝播したわけでもなく、嫁入り先への義理でもない。

たった十年足らずとはいえ、人一人の終わり、私の今までの短い人生の仲で、距離が近い人を見送ろうとしているということで、私は義父の死に、ある期待をしていたという事。その期待通りには、いかないのだと言うこと。

義父は、情けないところを見せず、かつ格好を付けて、示しを付けて、逝きたいと思っているのではないか、ということ。

たくさんの人の手を借りなければ、それすら出来ないこと。

それがまた、義父の「情けない」と感じる気持ちを倍加させているのではないか、ということ。

万感の思いをほとんど伝えるという事が出来ないまま、伝えたい思いは、義母か夫、義兄に伝える、最早それくらいしか出来ることは無いのではないか、ということ。

けれど、私には義父の思いを知ることが出来ないということ。

私も、義父との別れを望んではいないこと。

望もうと望むまいと、必ず訪れる事。

身を切るような痛みでは無いにしろ、それを悲しいと思っていること。

訳が分からないだろうから、直接言いはしないけど、絵画教室を辞めるという義父の選択を、不満に思ってまい申し訳無かったと思っていること。

そんな感じです。


いいなと思ったら応援しよう!