
「普通」を疑うために
今までの「常識」が変わる。「普通」が変わる。
そういった体験を始めて感じたのは、大学で専攻している文化人類学の授業が始めてでした。
簡単に、私が解釈している文化人類学というものを説明しましょう。
まず、あなたにこんな質問をしてみたい。
「好きなものはなんですか?」
なんでもいいです。アイドル、食べ物、乗り物、俳優、女優、家族。
思い浮かんだでしょうか?
では次に、「なんでそれが好きなんですか?」
かっこいいから。美味しいから。楽しいから。色々な理由があると思います。
最後の質問です。
「どうしてそう感じるのでしょうか?」
ちょっとわかりにくい質問でしたかね。
例えば、二つ目の質問に「かっこいいから」と答えた場合
どうして「かっこいい」物が好きなんですか?どうして「カッコ悪い」ものは好きじゃないんですか?
という意味です。
「かっこいいもの」と言われた時、私ならバイクを想像します。
しかし、読者の中にはバイクなんて知らないしかっこいいなんて思わない。と思われる方もいるかもしれません。
同じ「かっこいい」に当てはまるものを挙げても、その答えが人によって異なるのはなぜでしょうか。
人がかっこいいと感じるものは何か、そこに共通点はあるのか。
答えが異なるのはなぜか。何が原因なのか。
こういった人間の生み出すもの、特に「文化」を構成する要素。例えば、民族、芸術、言語、感情、慣習、祭事、音楽、娯楽などなどを研究するのが文化人類学であると私は解釈しています。
文化人類学はもともと、西洋の人々がアジアやアフリカ、南米の未開文明について研究することが始まりでした。
彼らは世界をどう認識しているのか。どのような文化を形成しているのか。が主な研究内容でした。
しかし、ここで奇妙なことが起こります。それまで未開文明に向けられていた視線が、逆に西洋文明に向けられるようになったのです。
彼らが認識している世界は、私たちの世界観ではどう写っているのか。それはなぜか。西洋の文化とは何か。他の文化と比べてどうなのか。
「他者」を通して「自己」を再発見する。これが人類学に特有の
「異化」という概念です。
冒頭の質問ではこの「異化」を体験してもらうのが目的でした。
かっこいいから好き。ではなぜ「かっこいい」ものが好きなのか。
かわいいから好き。では、あなたの思っている「かわいい」は全人類が同意できるのか。
今まで、当たり前すぎて疑問にも思わなかったこと。
「常識」「普通」「当たり前」
そういった、自明で議論もされなかったようなことを、疑い、議論の対象とするのが文化人類学です。
多様性を認めるとはつまり、自分の中の「普通」とは全く異なる「普通」と出会うことです。まるで他の文化と遭遇するのと同じです。
相手の「普通」を認めなければ、差別が起こる可能性もあります。
差別を発端にさらに悪化する可能性もあるでしょう。
では相手の「普通」を認めるためにはどうしたら良いか。
自分の「普通」もまた、他の人からすれば「普通」ではないと認識することが
問題解決の第一歩になるでしょう。
この世界には普遍的な普通なんてものはなく、
あるのは、その人だけが持っている「普通」だけ。この「」は、人によって違う。普遍的なものではない。という意味です。
ここまで読んでくだされば、私の言いたいことは予測ができると思います。
そうです。普通に「」を付け、対等な「普通」どうしになるために、
文化人類学の「異化」が必要になってくるのです。
「普通」どうしになったからといって争いがなくなるわけではないのでは?
その通りです。「普通」どうしが衝突する可能性もあります。
しかし、普通vs「普通」では議論さえ行われません。普通は議論の余地のない自明なものとされているからです。
ところが「普通」vs「普通」ならば、対等な立場どうしなので議論ができます。
その結果、両者が共有できる「普通」が生まれれば争いは終結し、両者が認められるようになるのです。
文化人類学の思考法が現代の多様化する社会において、非常に有効だということに
気づいていただき、あなたの「普通」を再考するきっかけになってもらえれば幸いです。