メッセージ性?えっへん、死ね。
何が言いたいか?
おしなべて芸術作品からメッセージ性を捨てろ。
ふーん、そういうメッセージ性が込められてるんだね。
と言い返してくる皮肉者とは気が合いそうだ。
2018UMB決勝 Authority vs Muton にて
”ノリだけで詰まってねえんだよメッセージ内容!”
というAuthorityのディスに対するMutonのアンサー。
独特なフロウを武器とするが内容の薄さをしばしば指摘されるMutonの見事なカウンター。
メッセージ性などくそくらえ。これがメッセージだ。と言わんばかりの皮肉めいたフレーズに感化された記憶は、古いにも関わらず未だ色褪せず残っている。そしてこれが今の自分の主張を明確に表現している。
答えのないなぞなぞ
さて、ふしぎの国のアリスで登場する「答えのないなぞなぞ」をご存知だろうか。
脈絡がないように見えるが、この思考に至るまでの経緯があって言っているということを一応記しておく。
今日chatGPT4が突然リメリックという単語を口にした。「なにそれ」という私の単純な好奇心がWikipedia漁りを惹起した結果、下記のような順番で調べを進めていくうちに、意味を崩すあるいは創造することで意味を持たなくなる・見えなくなる文学手法「ナンセンス文学」という言葉と出会った。
” リメリック→エドワードリアというイギリスの作家の得意手法→同名はナンセンス文学を確立させた人→ナンセンス文学の代名詞「ジャバウォックの詩」→ジャバウォックは不思議の国のアリスに登場する詩→ハンプティ・ダンプティによって一部解説される→本作に登場するハンプティ・ダンプティのなぞなぞ→同じく登場する答えのないなぞなぞ ”
不思議の国のアリスに登場する帽子屋のハッターがアリスに出題したなぞなぞは以下のとおり。
raven と writing が押韻していて語感が似ているのはなぜでしょうという問題。アリスは必死に答えを考える。
答えを知るまでにアリスはきっと2つの共通点をあらゆる方向から考えただろう。脚があるから?机にも木目があるから?机も黒くなるから?
だが、結局この問いに答えはなかったのだ。
「なんだそうなのか」「考えた時間が無駄だった」
というネガティブな考えよりもまず、答えがないことに対して永遠に解決しない無意味なテーマという解釈から、ナンセンス文学の真髄を感じて高揚した。
しかし、後に作者からこのなぞなぞには解があったことが明かされる。
後付けも考えられるが、以下の通り。
私はこれにがっかりした。
答えが明確に出たことで腹落ちしてすっきりという方もいるのだろうが、答えのないなぞなぞに相当魅入られていただけに、こんなチンケな答えだったことを知って私にとってこの問いの価値はぐんと下がった。
答えは作品を劣化させる。
発表された芸術作品には受け手による考察がつきものだ。私もよく作品の考察をするが、しかしそれが答えとなってしまった瞬間に作品の価値は地にまで落ちる。
ナンセンス文学に限らず、この考えは変わらない。
終始、相当わがままで独りよがりな主張であることは認める。
もちろん、メッセージ性がはじめから込められた作品には大いに考察されるべきだ。しかしそういった作品は風刺や自己主張の域を出ない。
答えのない文学作品として、宮沢賢治の「やまなし」を挙げる。
「クラムボン」とは一体何なのか。
太陽の光の反射だ、泡だ、トビケラの幼虫だ。様々な考察がされている。
このクラムボンという意味の見えないことばによって作品の魅力は底上げされているといえないだろうか。
もし宮沢賢治が、「実はクラムボンとはアメンボの類のことですよ。」と答えを出していたとしたら、やまなしは果たして国語の教科書に載って小学生に何十年も朗読されるタイトルになっただろうか。
次いで、いつだかのセンター試験に出題されて話題となった山田詠美の「僕は勉強ができない」問題。
作者本人が自分の書いたキャラクターの心情などについて問われた問題に、半分も正解できなかったというエピソード。
これは作品に答えを求めてはいけない好個な例だろう。
だから、
ジャバウォックの詩に書かれたネイティブ英語のニュアンスを日本人が完璧に理解できないように、
松尾芭蕉の俳句を読んで現代人が心情を完璧に理解できないように、
「月が綺麗ですね」は告白の意であるという意味を、頭で分かっていても自分で使おうと思えるほど理解できていないように、
芸術に答えを見出すことはナンセンスだ。
現代アートにしばしば起こる、人間を真空にして展示してみたり、泥の塊に顔を押し付けて造形するなど、表現するだけしておいて解釈を丸投げしてしまう事態とは明らかに線引きをするべきだが、
出された餌に食いつく犬のように、芸術を問いと捉えて必死に探し当てようとする行為がいかにもったいないか。
もしあなたが、受け手が感じたその全てが答えだと反論するのなら、私はそれを肯定した上で、同時にそのどれもが答えではないと返す。
作者はそもそも問うな。答えるな。
作者が問うから答えを探そうとする。意味深なモチーフを出すからこぞって意味を知りたがる。
もしその作品にメッセージ性をもたせたとする。
ならば一生答えを教えるな。そう言いたいし、自分もそうありたい。
作者がAと言わなければ答えはBにもなりうるしCにもなりうる。その余白は金のように時が経つにつれて価値を膨らませていく。
なんらかを発信した時点でそれは受け手とのコミュニケーションは始まっているため、このような理想が簡単にまかり通るものではないことは重々承知だが、作者があるメッセージを伝えたいのであれば、その作品で伝えればよいのだ。後書きで何を言っても負け惜しみにしかならないのと同時に、その作品が持っていた含みが完全に消え去り、薄っぺらい意見表明に成り下がる。
つまり何が言いたい?
だいぶ論点がずれたが、つまるところ何が言いたいか。
答えのない作品は永遠の神秘である。
それ以外を下げる言い方になってしまったのは申し訳ないが、
なぞなぞに裏切られた私の怒りがここまで膨張してしまっただけである。
笑い物にしてほしい。これがここまで長く書いてきた上での結論であり、メッセージ性だ。時間の無駄だったと思ってもらえれば本望。
なぞなぞの答えに対して私からのアンサーは、えっへん、死ね。