内なる魔性も
体に蛇を巻きつけ、翼を持ち、鳥面で憤怒相。飯縄権現がこのような魔神の如き姿をしているのは、「己の内なる魔性を見つめる」という教えのあらわれでもあるという。内なる仏性というならわかるが魔性?そんなもの見つめたくない、と思うかもしれない。しかし、ここにいのちの本質が表れているとしたらどうだろう。
飯縄権現は主に修験道で信仰される仏神だが、修験の行としていざ山に入ればそこには熊がいる。蛇や蜂、毒虫に魑魅魍魎もいるし、滑落して死ぬこともある。忌むべきものがたくさんある。
それでも、山は仏の胎内。すべて仏の胎内で起こっていることだ。仏に存在を許されているともいえる。
おれの中に魔性がある。怒り、妬み、嫉み、身勝手さ、残酷さ、愚かさ、ぜんぶある。しかしそれはもともと用意されているもの。切り離せない。退けられない。どこまでいっても。
飯縄権現は山そのもの、自然そのもの。優しい、厳しい、あたたかい、つめたい、きれい、きたない、ぜんぶある。いのちはぜんぶひっくるめている。魔性さえも。
「ぜんぶある」と認めきる。「ぜんぶあるね」って気づき直していく。その豊かさを見ていく。これもいのち、あれもいのち。わける必要があっただろうか。
大日如来の方便の巧みさたるや。