「修験道の本尊が不動明王であるのは、修験道が現実に即したものだから」と聞いた。大日如来という根本仏を意識するのはもちろんそうだけど、本尊としてはあえてお不動さまなんだ。如来ではないんだな。山中の行で感じる圧倒的な現実に対応するのは、お不動さまの「怒り」、いのちの原初のはたらき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?