ガメンノムコウデ ~#2000字のホラー~
なんとなく予感がしていた。
その気持ちを消したくて、あえて言ってみたのだ。
そう、軽いノリだった、はずなのに。
10年前に、わたしは地元を飛び出した。
親にも告げずに会社をやめて、退屈な毎日にサヨナラしたのだ。
最低限の着替えと、広い世界への憧れを小さなバッグに詰めて、長いレールの先にある、人が溢れたこの街に来た。まだ22歳だった。
就職してすぐに、付き合い始めたひとは、ひと回り年上の、いつも笑っている人だった。
楽しくて笑っているのか、笑ってしまう癖がある人だったのか、最後まで分からなかった。
妻子があるとは聞いていたけれど、止められないほどに飢えていたんだと思う。
生ぬるい生活に、何かを差し入れて、ぐるぐるにかき回したくらいに、若さが行き場を失くして彷徨っていた。
小さな町では、善くない噂が広まるのに、そんなに時間はかからなかったから、それからは、よくある展開になった。
友達も、親も、みんな敵になった。
それでも、全然悲しくなかったくらい、毎日が色づいていたから、一緒に笑っていられた。
電話越しに子どものはしゃぐ声が聞こえた日。愛されているのはわたしではないって、直感的に理解していた。
この世界には、退屈、なんて言葉はなくなったんだ、、、そう本気で思えたくらいにとても、好きだったというのに。
そんな遠い話を思い出しながら、薄灯りのカウンターで、チーズをつまんでいる。
ラムが入ったグラスの中で、地球儀みたいな透明氷が、ゆっくりと廻った。
風邪気味だから、と言う彼女の前には、ホットミルクがまだ薄い膜を張ったままで、カップを包んでいる掌を温めてくれている。
今日は、嬉しいお酒だったはずだ。
置いてきた甘酸っぱい記憶が浮かんできてしまったのは、あの頃よく食べていたレーズンサンドに、舌先の香りが似ているからかもしれない。
二週間前、画面の向こう側で、彼女は照れくさそうに、突然切り出した。
「結婚、することになったの。」
最近付き合い始めた話を聞いたばかりだったから、急な報告に頭がついていけなかったけれど、たまらなく嬉しくなった。
「じゃあ、さっそくお祝いしよう!」
プライベートなことをほとんど話さない彼女から、聞きそびれていた馴れ初めや、結婚式の理想プランなんて話をさんざんしたあとで、日付が変わる頃に、ようやく今日の約束をしたのだった。
彼女とは、ちょうど一年前の、今の季節に出逢った。
たまたま受けてみた体験型のレッスンで、わたしの隣に座っていたのだ。
どこかで会ったことがあるような、不思議な感覚がしていたら、彼女のほうから話しかけてくれて、「一緒に始めよう」そう言って半ば強引に入会することになってしまった。
結局、3か月もしないうちに通わなくなってしまった わたしとは違って、彼女は今でも続けているらしい。
好きな音楽がピタリと一致したわたしたちは、仲良くなるのに時間はかからなかった。
わりと家も近かったから、週イチで食事をしたり、一緒にライブや映画にも行くようになって、逢えない時にはオンラインで繋がっていた。
出逢ってから、まだ12か月しか経っていないことが嘘みたいに、わたしたちはお互いの時間を共有しすぎてしまったのだ。
その彼女が今、出会った日と同じように、橫に座って、溢れるほどに満たされた顔をして話している。
この前の日曜に、両家の挨拶を兼ねて、食事会があったらしい。
彼の実家は遠い田舎の方で、ご両親は高齢なのに、わざわざ新幹線で来てくれていた。「若いお嫁さんに来てもらえるなんて申し訳ない」そう言われたことが嬉しかったと、その会話をふたたび思い出した頬は、温かく染まっていた。
「…どんな人、かな。」
彼女はスマートフォンを取り出して、明るくなった画面に指先を何度か触れると、幾つも並んだ四角の中に、美しく盛られた懐石料理や星がついていそうなホテルの庭園が見えた。
両家が揃って、お店の人に撮ってもらった写真を見つけ出した彼女は、ためらう様子もなく、スマートフォンを真っ直ぐにわたしの前に差し出した。
わたしの手の中にある、画面の向こうには、
まだぎこちない新しい家族に囲まれて、幸福そうな彼女が笑っていた。
「実は、できちゃってるんだよね。」
耳元でささやいた彼女の声が、遠くで聞こえた。
ちょっと、飲み過ぎた、せいだろうか。
ゆっくりと、長い息をはいた。
動かないわたしの視線に映った彼女のすぐ隣にいたのは、退屈すぎて忘れてしまったはずの、いつかの笑顔だった。