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食ふことは「キ」を戴くことざ。


パワースポットで「キ」を戴きに行く。

スピリチュアルの定番パワースポット。
神社や森、滝や神木や磐座、神社などの気の満ちた場所で、自然の清浄な空気に触れながら、エネルギーを充填するような場所ですね。
開運を求めていく人も多いと思います。

開運だけでなく、日々の生活の中で蓄積された澱みである「穢れ」を祓う場所でもあります。
「穢れ」とは「汚れ」でもあり「気枯れ」でもあります。
穢れを祓うとは、気の枯れた状態を直す。気が枯れた状態になる原因を直す。ことを言います。
パワースポットで気を充填しに行くこともまた穢れを祓う一つの方法です。

身近なことだから気づかない

もちろん、気を充填する方法はパワースポットでないとできないわけではありません。
あまり気づきませんが、日々の食事もまた気を充填する方法です。
食べることで元気になったりしますね。食べなければ元気どころではありません。
食べることは、生命をいただくことです。気をいただくことです。
言われてみれば成る程という、当たり前なことですが、当たり前すぎて気付かないことでもあります。

もうずいぶんと前から「いただきます」「ごちそうさまでした」を聞くことが少なくなりました。独り暮らしであれば、なお少ないでしょう。外でいうのは恥ずかしい気持ちになるかもしれません。
でも、「いただきます」「ごちそうさまでした」を実際に聞いたときは、少し嬉しくなりませんか?

神様には言(こと)が大切

神道では言葉がとても大切です。
食べ物を戴くときは、生命を戴くときです。
感謝の気持ちは神様を通して生命に言葉で伝えることで、神様の気を戴くことになるのです。
食事もまた神事(かむこと)です。
神事は神様に寄り添い時節行い言葉が揃っていることがとても大切だからです。
直会(なおらい)とも言いますが、神様と同じ食べ物を食すことで、神様と寄り添い、神様の気を戴き、元の気となれるのです。

毎日の日々の生活の中で気「キ」を戴ける機会があることに気づき、
食事に感謝することを思い出して、「いただきます」「ごちそうさまでした」を実践してみませんか。

習慣はまず実践から

神様にお供えし、食前、食後に感謝を伝えます。
お供えは、実際に神棚にお供えしてもよいですし、「崇敬している神様」「寄り添っていただいている神様」「自然(八百万の神様)」などを思い浮かべ、神様に心の中で供えてから食べるだけでも良いです。供える仕草でも良いです。
朝夕のお腹が空いたとき(時節)に、土や太陽や生命や(神様)を想い、感謝()の、(言葉)をかけ、供えてから適量を食べる(行い)。
この毎日の直会を通じて、神様に寄り添いつつ時節と心と行いと言葉が揃う所作が自然と身に付きます。

小さな習慣を続けることによって、身のまわりや生活においても神様や自然の恩恵を感じられるようになれば、惟神(かむながら)、あとは、ありのままの自分で過ごせばよいのです。
楽しいと思います。

神道での作法を一つ紹介します。

いただきます 

一拝一拍手
保つものたなつもの 百の木草ももものきぐさも 天照すあまてらす 日の大神のひのおおかみの 恵みえてこそめぐみえてこそ
(いただきます)

食前感謝詞

ごちそうさまでした

一拝一拍手
朝宵にあさよいに 物くふごとにものくうごとに 豊受けのとようけの 神の恵みをかみのめぐみを 思へ世の人おもえよのひと
(ごちそうさま)

食後感謝詞

神前に供えたときの祝詞の一例

二拝二拍手
畏くも貴き神祇の大前に宇豆の幣帛を捧奉りてかけまくもかしこきかみがみのおおまえにうづのみてくらをささげまつりて 諸品の色香を以て清き御食御酒を奉りてもろもろのいろかをもちてきよきみけみきをまつりて祈祷事を皇神康けく平けく八百万神等諸共に納受せと申すのみまをすことをすめかみやすらけくたひらけくやほよろづのかみたちもろともにきこしめせとまをす
二拝二拍手一拝

御食御酒祝詞

日本ではありませんが海外でも。
こんな動画を見つけたので紹介したくなりました。


日月神示を読む

実は、「食ふ」「喰」「食すおす」は日月神示の中に、たびたび言及があります。
とても大切なことのようですね。
日月神示で神様が伝える「食う」ことについて、気になった帖を以下に紹介します。

この世はみな神のものざから臣民のものと云ふもの一つもないぞ、お土からとれた物、みな先づ神に供へよ、それを頂いて身魂を養ふ様になってゐるのに、神には献げずに、臣民ばかり喰べるから、いくら喰べても身魂ふとらぬのぞ何でも神に供へてから喰べると身魂ふとるぞ。今の半分で足りるぞ、それが臣民の頂き方ぞ。六月の二十五日、ひつくのか三。

第一巻 上つ巻 第十七帖 (一七)

何もかもてんし様のものではないか、それなのにこれは自分の家ぞ、これは自分の土地ぞと申して自分勝手にしているのが神の気に入らんぞ、一度は天地に引き上げと知らしてありたこと忘れてはならんぞ、一本の草でも神のものぞ、野(ぬ)から生れたもの、山から取れたもの、海の幸もみな神に供へてから臣民いただけと申してあるわけも、それで分るであろうがな。この神示よく読みてさへ居れば病気もなくなるぞ、さう云へば今の臣民、そんな馬鹿あるかと申すが よく察して見よ、必ず病も直るぞ、それは病人の心が綺麗になるからぞ、洗濯せよ掃除せよと申せば、臣民 何も分らんから、あわててゐるが、この神示よむことが洗濯や掃除の初めで終りであるぞ、神は無理は言はんぞ、神の道は無理してないぞ、よくこの神示読んで呉れよ。よめばよむほど身魂みがかれるぞ、と申しても仕事をよそにしてはならんぞ。臣民と申すものは馬鹿正直ざから、神示よめと申せば、神示ばかり読んだならよい様に思うてゐるが、裏も表もあるのぞ。役員よく知らしてやれよ。八月二十二日、⦿のひつ九のか三のお告。

第三巻 富士の巻 第十三帖 (九三) 

牛の喰べ物たべると牛の様になるぞ、猿は猿、虎は虎となるのざぞ。臣民の喰べ物は定まってゐるのざぞ、いよいよとなりて何でも喰べねばならぬやうになりたら虎は虎となるぞ、獣と神とが分れると申してあろがな、縁ある臣民に知らせておけよ、日本中に知らせておけよ、世界の臣民に知らせてやれよ、獣の喰ひ物くふ時には、一度 神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じょうぶになるのぞ何もかも神に献げてからと申してあることの道理よく分りたであろがな、神に献げきらぬと獣になるのぞ神がするのではないぞ、自分がなるのぞと申してあることも、よく分ったであろがな、くどう申すぞ、八から九から十から百から千から万から何が出るか分らんから神に献げな生きて行けん様になるのざが、悪魔にみいられてゐる人間いよいよ気の毒出来るのざぞ。八月の三十一日、ひつくのか三。

第四巻 天つ巻 第五帖 (一一二)

空に変りたこと現はれたなれば地に変りたことがあると心得よ、いよいよとなりて来てゐるのざぞ。神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、一人でも臣民助けたいのでお願ひしてゐるのざが、もうおことはり申す術(すべ)なくなりたぞ。玉串 神に供へるのは衣(ころも)供へることぞ、衣とは神の衣のことぞ、神の衣とは人の肉体のことぞ。臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理分りたか。人に仕へるときも同じことぞ、人を神として仕へねばならんぞ、神として仕へると神となるのざから、もてなしの物出すときは、祓ひ清めて神に仕へると同様にして呉れよ、喰べ物 今の半分で足りると申してあるが、神に献げたものか、祓ひ清めて神に献げると同様にすれば半分で足りるのぞ、てんのゐへん気つけて居れよ。神くどう気つけて置くぞ。神世近づいたぞ。九月六日、一二のか三。

第四巻 天つ巻 第十三帖(一二〇)

ハジメ(ヒツキ)ノクニウミタマヒキ、(ヒ)ノクニウミタマヒキ、のクニウミタマヒキ、ツギニ クニウミタマヒキ。
神に厄介掛けぬ様にせねばならんぞ。神が助けるからと申して臣民懐手してゐてはならんぞ、力の限り尽くさなならんぞ。(ヒツキ)と(ヒ)とは違ふのざぞ。臣民一日に二度食べるのざぞ、朝は日の神様に供へてから頂けよ、夜は月の神様に捧げてから頂けよ、それがまことの益人ぞ。十一月二十一日、一二⦿。

第六巻 日月の巻 第二十五帖 (一九八)

・・・キが元と申してあるが、キが餓死(うえじに)すると肉体餓死するぞ、キ息吹けば肉息吹くぞ、神の子は神のキ頂いてゐるのざから食ふ物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあるが、キは幾らでも大きく結構に自由になる結構な神のキざぞ。臣民 利巧(りこう)なくなれば神のキ入るぞ、神の息通ふぞ、・・・

第十三巻 アメの巻 第十帖 (三四四)

草木は身を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生れると申してあろがな、人の身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)となること嬉しいであろがな、惟神のミミとはその事ぞ、神示よく読めば判るのざぞ、此の道は先に行く程 広く豊かに光り輝き嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ、何んな事でも人に教へてやれる様に知らしてあるのざぞ、
・・・

第十三巻 アメの巻 第三帖 (三三七)

・・・
眼覚めたら起き上がるのざぞ。起きたらその日の命頂いたのざぞ。感謝せよ、大親に感謝、親に感謝せよ、感謝すればその日の仕事与へられるぞ。仕事とは嘉事(よこと)であるぞ、持ち切れぬ程の仕事与へられるぞ。仕事は命ざぞ。仕事喜んで仕へ奉れ。我出すと曇り出るぞ。曇ると仕事わからなくなるぞ。腹へったらおせよ。二分は大親に臣民腹八分でよいぞ。人民食べるだけは与へてあるぞ。貪(むさぶ)るから足らなくなるのざぞ。減らんのに食べるでないぞ。食(おせ)よ。おせよ。一日一度からやり直せよ。ほんのしばらくでよいぞ。神の道 無理ないと申してあろが。水流れる様に楽し楽しで暮せるのざぞ、どんな時どんな所でも楽に暮せるのざぞ。穴埋めるでないぞ、穴要るのざぞ。苦しいという声 此の方嫌ひざ。苦と楽 共にみてよ、苦の動くのが楽ざぞ。生れ赤児みよ。子見よ、神は親であるから人民守ってゐるのざぞ。大きなれば旅にも出すぞ、旅の苦 楽しめよ、楽しいものざぞ。眠くなったら眠れよ、それが神の道ぞ。神のこときく道ざぞ。無理することは曲ることざぞ。無理と申して我儘無理ではないぞ、逆行くこと無理と申すのざ。無理することは曲ることざ、曲っては神のミコト聞こへんぞ。素直になれ。火降るぞ。相手七と出たら三と受けよ、四と出たら六とつぐなへよ、九と出たら一とうけよ、二と出たら八と足して、それぞれに十となる様に和せよ。まつりの一つの道ざぞ。
・・・

第十四巻 カゼの巻 第一帖 (三五二)

光の巻しるすぞ、地(くに)の日月の神とは臣民の事であるぞ、臣民と申しても今の様な臣民ではないぞ、神人共に弥栄の臣民の事ぞ、今の臣民も掃除すれば九二(くに)の一二(ひつぎ)の神様となるのざぞ、自分いやしめるでないぞ、皆々神々様ざぞ。もの頂く時は拍手打ちて頂けよ、神への感謝ばかりでないぞ、拍手は弥栄ざぞ、祓ざぞ、清めぞと申してあらうが、清め清めて祓ひてから頂くのざぞ、判りたか、次の五の巻の謄写(とうしゃ)は四十九でよいぞ、十は神よきに使ふぞ、前のも十はよきに使ふたぞ、判りたか、皆に分けるぞよ、次は十二の巻の中からよきに抜きて謄写よいぞ。二月二十四日、ひつくの神。

第十八巻 一火リの巻(ヒカリの巻) 第一帖 (三九七)

・・・
故に、人間の生活は霊的生活、言の生活であるぞ。肉体に食ふことあれば霊にもあり、言を食べているのが霊ぞ。霊は言ぞ。この点が最も大切なことじゃから、くどう申しておくぞ。
・・・

第三十巻 冬の巻 第一帖

第三十巻 冬の巻 補帖

病、ひらくことも、運、ひらくことも、皆 己からぢゃと申してあろう。誰でも、何でもよくなるのが神の道、神の御心ぢゃ。親心ぢゃ。悪くなると云ふことないのぢゃ。迷ひが迷ひ生むぞ。もともと病も不運もない弥栄のみ、喜びのみぢゃ。神がよろこびぢゃから、その生んだもの皆よろこびであるぞ。この道理よくわきまえよ。毎日々々、太陽と共に、太陽について起き上がれよ。その日の仕事、与へられるぞ。仕事いのちと仕へまつれよ。朝寝するからチグハグとなるのぢゃ。不運となるのぢゃ、仕事なくなるのぢゃ。神について行くことが祈りであるぞ。よろこびであるぞ。食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。口から出るもの、入るもの気つけよ。いくさ起るのぢゃ。人間の病や、いくさばかりでない、国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな病となり、不運となってくるぞ。食べないで死ぬことないぞ。食べるから死ぬのぢゃぞ。  一椀をとって先づ神に供へよ。親にささげよ。子にささげよ。腹八分の二分はささげよ。食物こそは神から、親から与へられたものであるぞ。神にささげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。運ひらくのも食物つつしめばよい。言つつしめばよい。腹十分食べてはこぼれる。運はつまってひらけん。この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。  ささげるからこそ頂けるのぢゃ。頂けたらささげると今の人民申してゐるが、それがウラハラと申すもの。衣類も家も土地も、みな神から頂いたのでないぞ。あづけられてゐるのであるぞ。人民に与へられてゐるものは食物だけぢゃ。日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。人民ひぼしにはならん。心配無用。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運ひらける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理屈と申すもの。理屈悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。  理屈すてよ。すててやって見なされ。みなみな気つかん理(ミチ)、気つかん病になってゐるぞ。ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。食物節すればツキモノ改心するぞ。先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、三年つづけたら開運間違ひなし。病もなくなってうれしうれしとなるぞ。三年目、五年目、七年目ぞ、めでたいナア、めでたいナア。六月九日、ひつくの神。 以上

第三十巻 冬の巻 補帖

四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ草木から動物生れると申してあろう、神民の食物は五穀野菜の類(たぐい)であるぞ。今の人民の申す善も悪も一度にひらいて、パッと咲き出るのが、次の世の新しき世の有様であるぞ、取違いせぬように、悪と申しても魔ではないぞ、アクであるぞ。大峠の最中になったら、キリキリまひして、助けてくれと押しよせるなれど、その時では間に合わん、逆立してお詫びに来ても、どうすることも出来ん、皆 己の心であるからぞ、今の内に改心結構、神の申す言葉が判らぬならば、天地のあり方、天地の在り方による動きをよく見極めて下されよ、納得の行くように致して見せてあるでないか。

五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第八帖

悪を食ふて暮さなならん時近づいたぞ、悪に食われんように、悪を噛んで、よく消化し、浄化して下されよ、悪は善の仮面をかぶってゐること多いぞ、だが悪も大神の中に生れたものであることを知らねばならん。ダマシたいものには一先づダマサレてやれよ、ダマサレまいとするからダマサレるのであるぞ。生命の樹の実は美しくおいしいぞ、食べてはならんが食べねばならんぞ、肉体慾が先に出るから生命を失ふ、心でとりて実を喜ばせて食べるとよいのであるぞ、食べないで食べる秘密。

五十黙示録 第七巻 五葉之巻 第十三帖

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