逢魔が時
久々に、本を買いに紀伊國屋へ。
札幌本店はこの数日、営業を自粛していた。
そのせいか店に入った時は、再開を待ちわびていた本の虫たちが結構いた。
しばらくは時間短縮営業、土日は休業になるそうだ。
寂しいけれど、これもまた仕方がない。
予め読みたいものが決まっているのならネットで買えば済む話だが、知らない本と出会うにはたくさんの本が並ぶ棚を眺めていくほうがいい。
今回は配送にも遅れが出ていること、どうしても買ってすぐに読みたかったこととで直接店舗へ行った。
一冊だけを手にすぐレジへ向かう。
幸い入れ違いで混雑には当たらず、待ちに待った「無貌の神」(恒川光太郎)文庫版がようやく買えた。
恒川作品との出会いもまた図書館だった。
日本文学の棚の間をうろついていて、不意に目の端に他とは違う空気を放つ背表紙が映った。
それは当時、刊行されて間もなかった「夜市」である。
まだ誰も借りていないだろう真新しさ、タイトル、装丁、そして荒俣先生の推薦ということに惹かれ立ち読みもせずに借りた。
読んでいる最中、ただならぬ魔力を持つ本だと鳥肌が立った。
恒川さんの作品はどれも幻想的でいて、残忍で凶暴で妙に生々しく、悲しくて切ない。
この方の美しい文章は「物語を紡ぐ」という表現そのもの。
どこかに分類するのならファンタジーになるが、単なる空想ではない日常の裂け目のような、手のひらにじんわり嫌な汗をかく白昼夢的なリアリティがある。
出会って以来、大好きな作家の一人だ。
作者の生死や時代を問わず手にできるのが本の良さだが、この方は自分にとって初めてデビュー間もなくからリアルタイムで追い続けている作家さんなので、一方的に思い入れもある。
では普段から何度も読み返しているかというと、そうでもない。
私の中には、何度も読みたい本とそうでない本がある。
そうでない本というのは、読むのにちょっと気合がいる本だ。
例えば①古典のように読解に気合がいる、②シリーズまたはページ数が多いから気合がいる、③内容が重いから気合がいる、といった具合に。
恒川作品は③に近い。
何気なく、通りすがりに読んでいい本ではない。
心が弱っているときに読んでしまうと、ふんわり死を意識してしまう。
しかも(それも構わないかな)と自分が透明になってしまったような、宜しくない心地に陥るから怖いのだ。
油断すると逢魔が時のように、得体の知れない悪いものに引きずり込まれてしまう。
でも、その危うさがまた堪らない。
ああ、この人とんでもないよ。
好きだなぁ…。