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数字を追い求めることは罪なのか

(トプ画はPixabayよりmohamed_hassan作)

「天気にかかわらず朝晩どんどん冷え込んできてますが、お体ご自愛……」

ってなことを書こうと思いましたら、本文空白のところに公式からの文章でこんばんは。お体にお気をつけください。と一文。泣けてきますねえ。
皆さんもどうぞご自愛ください。

高潔なる意志は素晴らしいが…

 なんともみっともない、本性をさらけ出した文章を先日書いたわけですが。もちろん書いた文章は変わらず事実です。

 ですが率直に言いますと毎日の更新というのはとても難しいものです。僕が座右の書の一冊とする本に、安岡正篤氏の書かれた『活眼・活学』という本がありまして、その本の中に以下の一節がございます。

また、平生どういう理想を持っているか、ただ漫然と過ごすのではなく、一つの理想あるいは目標を持っている。これを志を持つといいます。しかしそれは、一時的では駄目でありまして、永続性がなければなりませんので、これを操という言葉で表現いたします。また仕事をするに当たっては、きびきびした締めくくりも必要でありまして、これを節といい、前述の操と合わせて、節操という熟語ができております。

 正直に言って、一時の反省・決心であるならどれだけの愚者でも行うことができます。でもそれは決してうわべだけではない、本当に心底思ったものであります。だからこそたちが悪い。

 結局のところ意思を固めることよりも、意思を継続させることのほうがよほど難しい。だからこそ人々は意思を目に見える形・残る形で可視化したり、より継続しやすい具体的な目標を掲げ、あるいは不退転の環境に自分を落とし込むのです。

 そして、その継続するための方針の一つ、具体的な目標というところに、「目標として数値を設定したり、恒常的な報酬を設定する」というものがある、ということを言いたかったのです、そう、数字を追い求めることは悪いことではない、と言いたかった。

 大業を成し遂げる者は往々にして高潔・神聖な意志を胸に動く。それは事実です。

 しかし、その意思の下行われる政策や作業というのは、もっぱらそれを行うことによって生活の糧が得られる者などによって行われます。これを個人レベルに落とし込んでも同じことがいえるのです。

 理想は高くもつ、これは大事なことですが、されどそれと同じくらい大事なことが、目先の目標を、それがどれだけ地道だったり即物的なものであっても淡々と続けていくことなのでしょうね。

 なんならとっかかりの目標自体即物的だっていいのです。これについては以前本紹介の記事で書きましたのでぜひ読んでいただきたいですね(記事というか、むしろ触れてる本を)。

両極のいずれにも陥らない

 ただここで必ずしも「良いことだ」と書かないのは、「良いこと」でもないからです。目標を掲げる行為自体は手段の一環でしかない。理想に近づくための小さな目標それ自体が主体化してしまっては元も子もない。

 なんと、理想へ進み続けるために小さな目標を掲げていると、そのうち小さな目標に固執し続けないようにしなければならないという試練も発生する。人の進む道というのはなんとも障害物に満ちています。

 でもだからこそ人々は何かを為して成し遂げることに魅せられ、絶えず何かしら遂げたい立派なお題目を探し求めるのかもしれません。

参考文献

安岡正篤『活眼・活学』
 安岡正篤氏は近代随一の陽明学者とされ、日本の政界などにも大きな影響を与えた人物と言われております。そんな方が書いた生き方のエッセンス本とでも言いますか…短いながらも滋味に富んだ内容となっています。
 本当は文庫を読んでいただきたいのですが、どうも売り切れのようで…代わりにKindleのほうのリンクを貼らせていただきます。

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