激動の今を生きるために、参考にしたい「彼」の方針
誰しも自分なりの意見を持っているものですけれど、それを大事にするあまりに他者と対立し、ときに争い、仲が絶えてしまったりするのはあまり良いことではありませんね。こういった心が鬱屈した時勢では特に起こりやすくなってしまう。
そういった争いをしないために、僕たちはどのようなことを心がければいいのでしょうか。
(トプ画はgeralt)
「明治維新」の立役者が1人を追う物語
「司馬遼太郎」「竜馬がゆく」という単語を聞いて、おそらく聞いたことがあるという人は少なくないでしょう。
しかし、いざ読んだことがあるかとなると…まあ、いまさら司馬遼太郎を読むなんて人は、多くはないでしょうね。
ですが、かつて激動の時代を生きた人々の足跡を辿ることは、同様に激動の時代を生きる僕たちには少なくない恩恵をもたらします。
中でも、日本の歴史上でも1,2を争う大改革、明治維新。この大業のさらに大立役者たる彼の人生からは、学ぶものが非常に多くあると僕は思います。
坂本龍馬、その人です。
どのような生きざまであったか細かいとこまで知りたい場合は、上に紹介した『竜馬がゆく』などを一読してみるのがよいでしょう。ここでは龍馬の生き方でもさらにその一部、彼が心がけていた「議論の方針」について語りたいと思います。
議論をしない竜馬
司馬遼太郎は小説『竜馬がゆく』にて、旧友ながら道を違えた武市半平太と対峙した竜馬をして、以下のように評価しています。
竜馬は、議論しない。議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬ、と自分にいいきかせている。
もし議論に勝ったとせよ。
相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである。 -『竜馬がゆく(三)』「伯楽」より
もちろんこれは竜馬が直接そのまま言ったこととは限りませんが、司馬遼太郎がこの作品を書くに際して様々な調査をして把握した坂本竜馬という人間の人柄であることは間違いありません。
誰がために議論を控えるか
僕たちは自分たちの意見を大事にします。それは、その意見が自分のうちから出たものゆえ、それらに誇りを持っているからです。名誉を持っているからです。
ということは、相手の意見も、相手にとっては、同じということです。
相手の意見もまた、相手のうちから生み出されたものであり、相手もそれらに誇りを持ち、それらに名誉を持っているのです。であるならば、それらをぶつかり合わせて、ときにそこで勝利して
いったい何を得られるでしょうか。
議論をした末に得た結論について、「理解すること」と「納得すること」は、似ているようで違います。すなわち
理解することとは、頭で受け入れること
納得することとは、心で受け入れること
という点において、この二つの行為は明らかに違うものです。そして、僕たちは結論について自分が望んだ結論出なかった場合、
理解することはあっても、納得することはない。
それは、自分の名誉を傷つけられたように感じてしまうからです。
しかも出た結論に重きが置かれる議会や学会などのような場所ならともかく、結論が出たところではいおしまい、と済んでしまうような居酒屋やネットの片隅。そんなところで相手の意見を、その裏にある名誉を、叩き潰して何になりましょう。何にもなりはしません。
もちろん、ひと時の勝利に酔いしれるようなことがあるかもしれませんが……それだけです。
どうか覚えておいてください。ネット上で、井戸端で、議論を避けることは、相手のためであり、まわりまわって自分のためであるということを。
参考書籍
司馬遼太郎『竜馬がゆく』
時代物小説というものを、皆さんは読んだことがありますか?たかが歴史の事実を並べたものだ、なんて考えたことはありませんか?
それは大間違い。文章でも失われない躍動感、文章だからこそ広がる世界。一度手に取って読んでみることをお薦めします。
……まあ、『竜馬がゆく』は少し長いので、他の作品から始めるのもいいかも??