【短編】『僕が入る墓』(遡及編 十三)
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僕が入る墓(遡及編 十三)
清乃は寝巻きのまま家へと急ぐと、すでに丘の上から天に登る龍のように煙がもくもくと立ちのぼっていた。坂を上がり切ると、家の前には村人たちが大勢集まっていた。そこにはまるで何者かが故意にやったかのように綺麗な円を描いて炎が家を取り囲み闇夜を眩しく照らしていた。
「おとー!おかー!」
清乃はほとばしる炎を前に膝から崩れ落ち、泣きじゃくりながら叫んだ。火は家全体を焼き焦がし、茅葺の屋根はそれを煽った。その打つ手なしの有様に、村人たちは今朝の太助への恨みを忘れて唖然と肩をすくめていた。皆火をつけた者が誰であるかを知りたがるように互いに声を顰めて何かを尋ね合っていた。
清乃は昼になって小作料の騒動があったことを下女から聞いた。その騒動で恨みを買った張本人が父の太助であることを知ると、父の困惑した顔を想像して気を落としてしまった。しかし、下女の話の続きを聞くにつれてその感情は危惧から失望へと変わっていった。なんでも太助は村人たちに内緒で久保田正孝と取引をしたらしいのだ。それを告げられた時、清乃は初めてなぜ自分は唐突に久保田正孝の屋敷に嫁ぐことになったのか察しがついた。自分と引き換えに父が何を得たのかまではわからない。しかし、それは娘よりも大事なものであることは今この現実が物語っていた。
だが燃え盛る家を目の前に、そんな父への恨みすら消えてしまうほどに清乃は家族が焼かれてしまったことに嘆いていた。家の周りは村人でごった返し、火をつけた者が誰なのかわかりようがなかった。今朝屋敷に抗議をしに来た村人の誰かか。あるいは久保田正孝か。清乃の頭にはいくつもの推論が生まれては消え、結局は何もかもが信じれなくなってしまっていた。清乃はふと中庭に咲いた白い花のことを思い出した。ヨーロッパという外国からやってきた花。あの花の美しさだけは誠であると、まだ自分の心を癒すものがあったことに安堵した。
明け方にようやく火が治ると、家の中からは五人の焼死体が出てきた。どの遺体もすでに原型を留めてはいなかったが、清乃の家族であることはその骨の大きさからわかった。清乃は屋敷の自室に籠り、食事も入浴もせずただひたすらに家族との別れを憂いた。清乃がその憂いを共有できる者はただ一人だった。不意に又三郎に会いたいと思った。
昼間に屋敷を密かに抜け出すと、眩しい光の下で畠を巡回した。村人たちは何事もなかったかのようにいつもの畠仕事に汗を流し、清乃の姿を見るとその哀しげな視線に居心地を悪くしていた。清乃はふと父の畠に何者かがいることに気がついた。その男は背格好がちょうど又三郎と同じぐらいで、伸び切った稲を必死に刈り取っている様子だった。
「あの――」
そう清乃が鎌を持った男に声をかけると、男は振り向いた。
「なんかようか?」
男はあっけらかんとした顔でこちらを見つめながら答えた。又三郎ではなかった。村では見かけない顔だった。
そうか。
と清乃は不意に久保田正孝の考えが手に取るようにわかったような気がした。そこに立っている男はおおよそ新しく村にやってきた若者だろう。今や畠の持ち主がいなくなったことで、新たな小作人がその土地を引き継いだのだ。これは久保田正孝の計算のうちなのか。あるいは予想外な事態への対策なのか。と再び思いを巡らせようとしたが、すぐに歩を進めた。清乃はもう誰も責めるつもりはなかった。何もかもを失って気づいたことが一つあった。この世の中を生き抜くためには、純情を捨てなければならないのだと――。
「話はそれで終わりですか?」
義父は足が痺れたのか軽く起き上がって老婆の巫女に尋ねた。
「いいえ、あともう少しです。清乃という女は家族を失ってから徐々に屋敷での生活を受け入れ始めました。地主との間に何人もの子供が生まれ、地主の家系の子孫繁栄に貢献しました。しかし、悲しいことに若くして体力も尽き、子供を産めない体になってしまうとすぐに地主からこう告げられてしまったのです。用済みだと。ちょうど狩猟用の罠商売も畳んでしまっていたので、品物を置いておく倉庫として使っていた地下の部屋に清乃を閉じ込めたのです。清乃はそこで残りの長くない余生を自分の思い出とともに過ごしました。そして子供を残して息絶えると、その霊はどこかへと消えていきました。これで話はおしまいです」
「ひどい話ですね」
義母は思わず同情の念をむき出しにした。
「なぜ地主はそんなことをする必要があったんですか?」
義父は義母の言葉に被せて言った。
「おおよそ、小作人の家系の者だからでしょう」
「だがもう小作人ではなかったはずだ。太助という男も畠を返してもらったんだから」
「当時は一度小作人になってしまえば、その身分は定着してしまいます。地主は村からの印象を危惧していたのでしょう」
「めちゃくちゃだ」
「――」
黙り込む巫女に義父は重ねて尋ねた。
「火をつけたのもその地主なんだろう?」
「いいえ――」
老婆は落ち着きを保ったまま呟くように打ち明けた。
「又三郎という男です」
僕も義父も義母も皆言葉を失った。あれだけ太助のお世話になった又三郎が、気を狂わせたという理由だけで家に火をつけたことが信じられなかった。
「どうして――」
義父と義母が今にも同じ質問をしようとしている一歩先に僕は言った。しかし返ってくる答えは期待していたものではなかった。
「わかりません。唯一それだけが――」
「あなたはその昔の人たちが何を考えていたのかわかるんじゃないんですか?」
「いいえ、私が見えるのは実際に起こった出来事だけです。誰が何を考えていたかはあくまで推論なのです」
僕は一切つけ入る隙のない巫女の老婆にこれ以上質問をしても意味がないと思い口をつぐんだ。老婆は続けた。
「ここで申し上げられるのが、その久保田正孝という地主は、間違いなくあなたたちのご先祖であること。そしてあなた方がもう一方の小作人の血を引いているという事実です」
話に釘付けになっていた義父はおどけた様子で巫女に問いかけた。
「我々は、代々名家の地主の家系と伝えられてきたが、それは嘘だということか?」
「嘘ではないでしょう。しかし先祖の歴史はあなたが考えているほど単純ではないようです」
「じゃあここではっきりさせておきたい」
そう言って義父は立ち上がると、巫女を見下すように言葉を投げた。
「我々を襲っているのはこの太助という男の亡霊ということですか?」
「はい。その通りです」
再びその場はしんと静まり返った。僕は何かを思いつくと、堪えきれずに巫女に尋ねた。
「でもおかしいじゃないですか。我々を襲っている霊が太助という男だとするならば、狙う相手を間違えている。家を放火した又三郎という男が本来の仇じゃないんですか?」
「太助は又三郎という男のことを恨んではいません。彼の恨みは、地主に裏切られたこと。そして娘を奪われたことです」
三人は老婆の淡々と答える姿に頷くことしかできなかった。しばらく今までの話の壮大さに浸るかの如く黙り込んでいた。ふと僕は大事なことを思い出した。
「あなたは、先ほど霊は物理的には攻撃できないから、人の体を借りると言っていましたね。明美を襲ったのは、一体誰だったんですか?」
「――」
老婆はなぜかその質問には答えようとはしなかった。
「わからないんですか?」
「いいえ。今お話しすべき時ではないかと」
「知っているのなら言ってください。誰であれもう仕方がないことでしょう」
「わかりました。ではお話しします。明美さんを襲ったのは、拓海さん、あなたです。あなたの体に霊が乗り移ったのです」
僕は一瞬思考が停止した。巫女の口から溢れたその言葉が僕には信じられなかった。あの夜、霊に乗り移られたとはいえど、自分の手で明美を殺そうとしていた。もし仮に明美が死んでしまっていたら僕はもう気が狂ってしまうだろうと不意に恐ろしくなった。
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