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【短編】『僕が入る墓』(遡及編 九)

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僕が入る墓(遡及編 九)


「娘を?」

 太助は、久保田はんが投げかけた言葉を自分の生ぬるい唾液と共にゆっくりと食道から胃へと流し込むと、そのあまりの腐りように腹痛を起こしそうになった。

「清乃を――、清乃を嫁にもらうっちゅうことですかい?」

「そういうことや」

 たしかに清乃はとうに嫁入りしてもおかしくはない歳ではあった。清乃からは何の色恋も見受けられないために、まだ結婚など早かろうと家に居させ、つい便利に使ってしまっていた。しかし十五年もの間同じ茅葺きの屋根の下で暮らし、その成長を見届けてきた太助からすると、娘が嫁入りすることは自分の貴重な財産を失うも同然だった。

「それを断ったらどないするんです?」

 久保田はんは、太助の痩せこけた顔をじっと睨みつけながら呟いた。

「せやったら全部白紙やな」

 太助は思いもよらぬ提案に閉口しながらも平静を装った。割に合わない条件をなんとか無しにできないかと必死に疎い頭を絞った。村人たちやその家族の暮らしがかかっていると同時に、娘の人生も自分の一存に委ねられているのだ。

 清乃は毎日、太助が汗水流して耕した米を食べて育ってきた。畠そのものは昔地主に手放してしまったものの、娘だけは自分のもとから離れることにどこかやるせなさを覚えていた。それは母さんも同じことだった。そのため清乃の年齢など構わずにいつまでも家に居させてもいいだろうという安直な考えを暗黙のうちに家の中に蔓延らせてしまっていた。

 太助は、娘を嫁に行かせるなんて遠い未来の話とばかり考えていた。娘がいなくなることで家事や小さい息子たちの面倒を見る者がいなくなる。婆さんだって誰かが面倒を見なければならない。母さんが畠仕事をやめて清乃の仕事を丸ごと引き受けるとなれば、自ずと米や野菜の収穫量が減るのは目に見えている。今の家族の生活を支えているのは、洗濯や炊事、介護、子守りなど一つ一つの些細な仕事だった。

 かと言って、清乃にこれまで通り貧相な生活をさせていていいものだろうか。清乃にはもう少しいい暮らしをさせてやりたい。野菜や漬物、汁物だけでなく、肉や魚も食べさせてやりたい。今回はそんな生活を改めるための争議の申し出なのだ。今この場で話をつけてしまえば村人たちの生活も多少なりとも改善するはずだ。目の前に用意されたこの瞬間が太助の家族、そして村人たちにとって正念場だった。

 太助は目を背けたいほどの苦い現実を細い顎で噛み締めながら、今までになく脳天に熱を籠らせた。慣れない椅子の座り心地のよさが精神を甘やかすかと思いきや、その誘惑さえつけ入る隙がないほど太助の身体は緊張のあまり硬直し切っていた。

 条件を飲めば、久保田はんは畠を返してくれるだけでなく、米もうまく貨幣に変えてくれると言うじゃないか。あと一歩のところで今の貧乏な暮らしから抜け出せると言うのに、なぜこう都合の悪いことが重なるのか。その都合とは一体何を以てして都合と呼べるのだろうか。娘が家から出ていくことは自分にとってそれほど、娘を恵愛してきた過去を無碍にすることなのだろうか。では娘への愛とは一体何なのか。それは娘の幸せに決まっている。しかし果たして今、娘は幸せと言えるのだろうか。仮に娘が自分の手から離れたとて、娘への愛を持っていれさえすれば良いことではないか。死んでしまうわけでもあるまいし。それに――。

 太助は暗闇の中に一筋の光を見た気がした。いつのまにか激しい雨風も収まり、部屋の中には雨上がりの柔らかい日が差し込んでいた。

「大変待たせてしもうて申し訳ない。娘を――、あんたにあげよう」

 久保田はんは、腹を空かせて餌を求める犬のように目と口を大きく開けた。長らく太助の困り果てた様子を見ながら、別の条件でも用意しようかと企んでいたに違いないが、太助のその短い返答は久保田はんの想像していた成り行きをゆうに超えてきた。提案を持ちかけられた時とは打って変わって、太助から発せられたその言葉の節々には固い決意が感じられた。太助の心中では一つの考えが乱世を制した将軍のように力強く居座っていた。

 久保田はんの妾になるのなら、娘はきっと贅沢に暮らせるだろう。貧乏とは無縁の生活が待っている。それに――、清乃を大人にさせるにはいい機会だ。今が親としても引き時なのかもしれない。母さんもきっと理解してくれるはずだ。

 太助は、久保田と井上の朱印の押された地券と減免の通達書を片手に部屋を出た。別の部屋には重役の大男と又三郎が座って待っていた。

「終わったんか?」

「ああ」

「どうやった?」

「――争議はなしや」

「なんやと? 断られたんか?」

 又三郎は長く待たされた挙句、争議ができないことに憤慨していた。

「いいや、その逆や。小作料さ減免してもろうたんや」

「ほんまか?」

「ああ」

 又三郎は、太助の力の抜けた言葉を不審がったが、減免の文言の記された書物を見るや否やすぐに表情を変えた。

 外はすっかり明るくなり草葉が太陽の日を浴びて透明な雫を地面に垂らしていた。太助は畠のことも娘のことも又三郎の前では一切口にしなかった。又三郎は太助を見直したといった様子で、前を歩く丸まった太助の背中を何度か叩いて祝福した。

 家に帰ると、すでに婆さんと母さんは家に戻っていた。村の男たちは突然の雨で帰ってしまったと告げられた。清乃の姿が見当たらなかった。太助はこれを好機と見て、母さんと婆さんに久保田はんとの約束事を包み隠さず全て話した。特に責められることもなく、二人は太助の決断に納得を示した。

 息子たちと清乃も家に戻り、皆で囲炉裏を囲んで食事をする中、太助は一人背筋を伸ばし膝に手を添えて言葉を切った。

「清乃、おめえに大事な話さあるだに」

 清乃は茶碗を床に置いて心配気な表情を見せながらも黙って太助の方を向いた。

「これからおめえは、この家さ住めなくなる。明日からは地主の久保田はんの家に嫁いでもらうことになったんや。要は久保田はんの旦那になるっちゅうことや。わかったな?」

「――」

 清乃は突然の言いつけに返す言葉がなく黙り込んだ。清乃の目の前には、又三郎が畠仕事をする時の真剣な表情が映っていた。すると次第にそれは太助の険しい面へと変わっていった。清乃は小さく頷くと、そっと茶碗に両手を差し伸べて一口汁を啜った。

 母さんは娘が気の毒なあまりつい泣き出してしまったが、清乃の眼からは一切涙が溢れることはなかった。母さんは目を真っ赤にしながら頭の後ろから何かを取り出した。愛用している赤い簪だった。母さんは清乃の背後に周り頭に巻かれた布を解くと、膨れた両の手で髪を結んで中央にその簪を差し込んだ。

 赤い簪は清乃によく似合っていた。その美しい顔立ちに赤い色が加わることで一層魅力的な女性に生まれ変わった。これで嫁入りする準備は整ったと言ってもよかった。清乃はふと畠のすぐ近くで見つけた不思議な白い花を思い出して、一滴の雫を膝の上にこぼした。


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