【短編】『僕が入る墓』(おまけ)
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僕が入る墓(おまけ)
月日が経ち、久保田家の屋敷は再び熱帯夜を迎えていた。昼に蝉が鳴く代わりに、夜はカエルが屋敷全体を賑やかにした。真夜中に聞こえる風の音はまるで魔女が薄ら笑いしているように聞こえ不気味だった。
女は体を返して仰向けになる。暑さのせいかなかなか寝付けずにいた。隣を見ると、先ほどまでぐっすり寝ていたはずの夫の姿がなかった。いつの間にトイレに行ったのだろうか。と不思議に思った。夫はしばらく経っても寝床に帰ってこなかった。妙な胸騒ぎがした。天井を見上げると、木の板がところどころ黒ずんでいる。すると何かが頭上でピカっと光ったような気がした。女は体を起こして両目を擦った。何の光だろう。珍しそうに頭を近づけた途端、その光は美しく細長い線を描き、たちまち目の前に大きな刀剣を持った男が現れた。夫だった。わっと叫ぶ間もなく、その鋭い光は勢いよく女に向かって落下した。
「キャッ!」
明美は僕の胸に飛びついた。
「大丈夫だよ。映画なんだから」
「怖いよー」
「大丈夫だから。ほら、もう朝になってる」
僕は明美の恐怖を和らげようと優しく頭を撫でた。
「怖いのきら―い」
明美はそのシーンで怖気付いていると思いきや、僕を睨んで不貞腐れていた。その後何度も同じことを繰り返し、ようやく映画はエンドロールを迎えた。僕は落ち着きのない明美を慰め続けるあまり映画を満足に楽しめずにいた。外はまだ明るかった。
「ちょっと仕事してくるよ」
「えー、怖いから行かないで」
「ごめんよ。好きなドラマでも見てな」
僕は平日にやり残した仕事を片付けようと居間を出て、新たにデスクとパソコンを設置した仕事部屋へと向かった。アメリカから来た新社長のおかげでフルリモートが可能となったのだ。僕はすぐさま上司に進言し、都心の賃貸マンションの解約手続きを進めた。よく飲みに誘ってくれる先輩社員には申し訳なかったが、明美の家族のことを考えると、その決断は間違っていなかったと実感した。お祖父様は早く二人でこの屋敷に住んでほしいと言っていた。亡くなった今でも、僕はお祖父様に受け入れられたいという感情がどこかで残っているのだろう。と過去の酸っぱい記憶を思い出し心の中で苦笑いした。
廊下を歩いていると、鋭い西陽が窓の隙間から僕の目めがけて襲ってくる。仕事部屋までは廊下をまっすぐ歩いて玄関を通り過ぎ、突き当たりを左に曲がって、その奥にあった。昔、お祖父様が使っていた部屋に近かった。廊下にあったはずの穴はすでに改修工事で元通りになり、地下にあったガラクタは骨もろとも全て撤去された。
ふと夏にもかかわらずやけに気温が低いように体が感じた。床板も冷たく、まるでこの屋敷だけ季節が逆転しているかのようだった。
一瞬、何か物音を聞いたような気がした。
しかしすぐにあたりは静まり返った。気がつくと、蝉の声もカエルの鳴き声も消えていた。何かがおかしいように感じた。僕は咄嗟に来た道を戻り、居間へと急いだ。足の裏が床に触れるたびに板が軋み、屋敷の脆さを危惧した。居間の扉を開けた途端、目の前に息をのむ光景が広がっていた。外は雪が地面を覆い尽くし、さっきまでテレビの画面に釘付けだったはずの明美の姿もなかった。僕はどこに迷い込んでしまったのだろうか。
再び屋敷のどこからか物音が聞こえた。
再び廊下に出ると、訳もわからずまっすぐ走り始めた。寝室を通り過ぎた時、嫌な匂いが僕の鼻を刺した。僕はゆっくりと廊下を戻り、その匂いのもとを探ろうと、半分開いた襖に手を伸ばした。
あっ
寝室には敷かれた布団の上に血だらけの明美が横たわっていた。すでに何日も経って肉は腐っている。
「明美!」
何度肩を揺すっても明美は天井の一点を見つめたまま沈黙を貫く。
「明美!」
ふと足元を見ると、大きな鍬が用を終えたといった様子で捨てられている。その刃の先には明美の肉の破片が乾いてへばりついている。僕は鍬を持ち上げると、なぜかぴたりと自分の手の中に収まる不思議な感覚を味わった。まるでその鍬の持ち主が自分であったかのように。
僕は愕然とした。自分が今持っているものは死そのものなのだ。いくら身を隠してもそれは必ず僕を見つけ出し、どこまでも追ってくる。決して逃れられない永遠の恐怖。一度それを手にしてしまうと、二度と手放すことはできない。僕は力強く鍬を握りしめ、怒りのまま叫んだ。
「拓海」
誰かに自分の名前を呼ばれたような気がした。ゆっくり目を開けると、目の前には、朝日に照らされてまるで天から舞い降りたかのように明美が立っていた。
「ねえ、汗びっしょりじゃない。また悪い夢見たの?」
今見ていた光景は全て夢だったようだ。僕は思わず安堵の息を漏らした。僕を上から見つめる明美は、大きく膨らんだ腹を重たそうに抱えていた。明美は無事のようだ。
「嫌な夢を見たよ」
「またあの夢?」
「うん」
「そっか。怖かったね」
明美はそっと僕の枕元に座ると、優しく頭を撫でてくれた。僕は腕を明美の方へと伸ばし、お腹を撫で返した。その形は綺麗に弧を描き、まるで中に未知の生物を宿しているかのようだった。お互いに撫であっていると、どこか安心した。
「もうすぐだね」
「そうね」
明美は大人の笑みを見せると、自分の手を僕の手に被せた。明美のお腹と手は温かかった。
「ほら、シャワー浴びてきな。もうすぐ朝ごはんできるよ」
「そうする」
布団には汗で大きな湖ができていた。申し訳なく思いながらも、それを放置したまま急ぎ足で浴室へと向かった。食卓で義母の作る卵焼きと焼き鮭が僕を待っていた。
おまけ 完
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