これが孤独でないのなら、何を孤独というのだろう/ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
フォークナーレビューの最後。
「響きと怒り」と同じくアメリカ南部ミシシッピ州の町ジェファーソンを舞台に、アメリカに大統領が二人いるという状態の南北戦争4年間を中心とした南部の歴史を背景として、そしてある男の破滅的なまでの“血”へ執着を種に、男によって災いの種を撒き散らされた女たちを床にして、言葉以上の心の痛手と憤怒を熱病に浮かされたような圧倒的な語りの力で絞り出した「血の呪いと業」の結晶。
「響きと怒り」で用いられた“意識の流れ”の手法が本作品で濃厚に復活していて、また誤解を避けるという意味以上に文章の中に度々()を用いながら語り手の考えを口酸っぱく記述してある箇所が多々ある。なので一文が異常なほど長い。しかし語り出される言葉は非常に粘着性があって糸を引きながら頭に残るので、一文読み終わるまで大きな混乱は起こらない。集中力と熱意が途切れない限り、語り手の思いの重厚さと複雑さを感じ取ることが出来るのではないかと思う。
読んでいて、登場する男たちや女たちが感情を言葉にも態度にも出さないのは、連綿と横たわっていたアメリカ南部の歴史が、そこに生きる人間たちに刻み込んだ諦念のようなもののせいなのだろうかと考えたのだけど、がしかし、第5章におけるミス・ローザの、一瞬も力を抜くことなく語られる言葉の激しさ、言葉の限りを尽くしても語り切れない苛立ちと無念さは、歪んでいるようで真っすぐな、女に許された最後の活力なのではないかと感じるようになった。
一方、災いの種を撒いたトマス・サトペンのことは、本人ではなく人々に語り継がれる形で、彼の抱いたであろう個人的な感情よりも"事実"に重点が置かれている。が、それでもサトペンの内面を感じ取るには十分だ。彼の構想を実現する手段こそ賞賛できないものの、社会的な正しさよりも信念を優先する彼の激しい焦燥感と、女達に計り知れない憎しみを植え付けたその振る舞いは、サトペン自身にとって見かけほど容易なものではなかったのかもしれない。それらの行動が、人々からの「拒絶」と、その「衝撃」によって正当に生み出された正当な態度なのだと思えてくる。また、南北戦争における南部の興亡、停滞や後退に、彼の心の軌跡を重ねてみるようでもあった。
男と女ということに関しては・・・女にとって悲しみながら生きるよりも憎みながら生きるほうが辛いのだということを男がいつまでも分かろうとしないのは、男たちの世の中に対する絶対的な不信感のせいであり、そしてまた男の抱く不信感を女がいつまでも理解しようとしないという、男と女の間に横たわる氷山の亀裂のような深い溝と、それぞれの孤独を思わずにはいられなかった。
如何なる言葉も、如何なる行動も、如何なる態度も、優しさを優しさとして、愛を愛として伝えることができるのなら、男と女はどれだけ素晴らしい恋人同士や夫婦になれるだろう。「親と子」であることが不幸ならば、「男と女」であることもまた不幸なのかもしれない。
また本作において、「響きと怒り」に登場したコンプソン家の長男クエンティンが再登場する。上巻で聞き手であったクエンティンは下巻で大学の同僚であるシュリーヴと共にその高度な思考と想像力によって、本作「アブサロム、アブサロム!」の中で最も魅惑的で最も複雑な人物であるチャールズ・ボンの徹底した宿命論に正当性を与えてしまう。
何よりも悲しいのは、彼ら二人によるこれらの悲劇の再現と再構築という作業が、南部の血の歴史を”聞き過ぎた”クエンティンの人生をも左右し、彼自身を容赦なく追い詰める作業でもあったということだ。
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