「描かれる側」の人間だったかもしれないJ.D.サリンジャー

誰が書いたかよく知らない「自省録」でも読んでみるかと本屋に行ったのが半年ほど前だったと思うが、確かにそこに「自省録」はあったし、さあ買え、といわんばかりにタイムリーにもドラマ「ミステリと言う勿れ」の主題歌である「カメレオン」が店のBGMに掛かったこともあって手にとったのだけど、最近海外小説を読んでないなと思っていて、海外小説の文庫本が並んだ棚を見ると村上春樹訳でサリンジャーの「フラニーとズーイ」があった。同じ村上の村上龍がエッセーで、サリンジャーは面白いよ、是非読んでみてね、と書いてるのを目にしてから半世紀は経ったような、半化石化した記憶がある。そもそもサリンジャーという名前だけを知っていて何を書いた人なのか全然知らなかった。昔から「ライ麦畑でつかまえて(新訳では『キャッチャー イン ザ ライ』)」という本があるのは知っていた。でも知っていても誰が書いたのか知らないままだった。ええ?まだ読んでなかったのぉ??と思われるかもしれないが、そもそもその「つかまえて」という言葉に、10代の私は勝手になんかヤラしい響きを感じて読んでなかったのだ。ともあれ、本屋へ行ったその日は「キャッチャー」ではなく、目に入った「フラニーとズーイ」と、未だに著者の名前(マルクス・アウレーリウス)を覚えきれない「自省録」を買って帰った。

読み進めるのが極めて遅い私は2~3日かけて読んだと思うが、読み終えて最初に自分を襲った感覚は、レビューを書きたいとか誰かに紹介したいとかそんな細かいことではなく、「とにかくこの本を丸ごと食べたい!!」という衝動だった。映画「レッド・ドラゴン」でレイフ・ファイアンズ演じるダラハイドがウィリアム・ブレイクの版画を見てその場で破いて食べてしまうが、あの衝動と同じ、「一体化したい」という衝動。

私は小説を読み終わってまたすぐに最初から読み返すということはほとんどなく、再読は3~4年経ってからということが多い。いったん受け入れたあとは時間をかけて身体に馴染ませる。べつにそうすると決めているわけではないが、私の本との付き合い方がそうみたいなのだ。それに一冊一冊をきちんきちんと読み終えて次に進むとも限らない。

数年前に買っていたレイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」の旧訳を読んでいる途中で読み通す気力を失ってしまって読書が止まり、気分転換をしようとサリンジャーを買って読んで、ハマってしまって2回読んだ。これはサリンジャーと村上春樹の相性が無茶苦茶良いせいなのかもしれないと思い、ではチャンドラーも村上春樹訳であるなら最後まで読め通せるかも!と期待して新たに「ロンググッドバイ」を購入して読んだのだ。しかし内容があまりに示唆に富みすぎているせいか、あるいはあまりに名作すぎるせいなのか分からないが、うまく咀嚼できていない。

その後、村上氏が「ロング・グッドバイ」のあとがきで「『ロング・グッドバイ』は、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』をベースにしているのではないかと個人的に思って読むようになった」、なんて書いてあるものだから、今度は「グレート・ギャツビー」を読む羽目になってしまった。読書好きの人にはこんな名作もあんな名作も読んでなかったのかとまたまた思われそうだが、知ってはいても読むきっかけがない限り私はなかなか手を付けないのだ。何しろ太宰治の「走れメロス」だっていまだに読んだことはないのだから(内容を聞いたことがあるという程度)。そしてさらにいうならば、村上春樹はこの「ギャツビー」や「ロング・グッドバイ」をベースにして「羊をめぐる冒険」を書いたのではないかと思うようになった。そしてそこで抱えた心のしこりをそのまま終わらせずに“解決”しようとしたのが「ダンス・ダンス・ダンス」ではないかと今は勝手に思っている。

「ロング・グッドバイ」も「ギャツビー」も、まさに大人のための小説だと思った。名作と言われるだけの凄さがある。作家としての文章の凄さが当たり前と言いたいのではない、なんといっても彼らが表現しようとしたものが当たり前ではないのだ。現実的すぎて、なんならわざわざ描かずに(書かずに)心に閉まっていてもよさそうなもの、男同士の友情物語として美しく残したくても決して美しくできないもの、しこりとして生涯残り続けるかもしれないもの、物語が終わってもそこから否が応でも発生するであろうと予感できる解決しがたい喪失感、大の大人がどう処理しようにもどうにもできない記憶…米国を代表する二人の準古典小説家の最高峰である作品を最初に読んでしまったために、それぞれの他の作品を読む気になれないほどだ。まるで自分にも彼らの喪失感が伝染してしまったかのように。

それから無言劇のような時間を過ごす中で、私の手が彷徨うように本棚から引っ張り出したのは、村上春樹の短編集「レキシントンの幽霊」だった。すいぶん昔に買った本で内容は覚えていないのに、手が導く。不思議なものだ。手が何かを記憶している。実は最初に読んだ村上春樹の作品はこの短編集なのだ。数年前、当時仲良くしていたメール友達のライターさんが、「あの短編集ならおすすめはなんといっても『トニー滝谷』でしょうね」と教えてくれたのを覚えている。
そして「トニー滝谷」はイッセー尾形と宮沢りえ出演の映画になっていることも教えてくれていた。さっそく読んでみると、「ギャツビー」の小説の中でも(映画の中でも)ハイライトシーンであるあの数えきれないほどの美しい沢山のシャツをギャツビーが長年の想い人であるデイジーに放り投げる情景が頭に浮かんだ。それがこの「トニー滝谷」という小品にインスピレーションを与えたのかもしれない。他の短編の中にも「ギャツビー」を思わせるちょっとしたシーンが描かれている箇所があり、村上春樹の中には溢れてしまってどうしようもないほどの「ギャツビー」への憧れと情熱が、いつまでもいつまでも本当に生き生き脈打っていることを実感せずにはいられなかった。その後、アマプラで映画版も見た。

なにはともあれ、村上春樹の新訳で「ロング・グッドバイ」も「ギャツビー」も最後まで読み通すことができたわけだ。この二つの作品の魅力を1行も怠りなく読者に届けたいという気持ちが行間から伝わってきたのは読者として貴重で喜ばしい体験だった。映画監督のポランスキーが「いつも思うのは、大人のための映画を作っていきたいということ」と言っていたように、大人のための小説、しかもそんな小説を2つも3つも立て続けに読んだのだから、私の心に深く刻まれた何かが何日も長く尾を引くのは当たり前かと思うし、それとも単に私が小説に感化されやすいだけなのかとも思う。

そこであることを思い出した。サリンジャーは自分の作品の出版にあたって、あとがきやまえがきを誰にも許可していない。なので「キャッチャー」にも「フラニーとズーイ」にも小説が終わったあとは、誰も、何も書いていない。でも「フラニーとズーイ」には村上春樹のエッセーのような折り込み型の冊子が付録として挟まっている。最初に小説を読み終えたあと、小型の古文書を開くようにパラパラとめくって読んだのだけど、それだけで十分面白くて、この長文バージョンが新潮社のHPに載っていると記してあった。思い出してアクセスして読んでみた。するともう読んでいるだけで嬉しくなり、しかも読み応えのある内容だったのでプリントアウトして何度も読んだ。A4サイズにして11ページ、サリンジャーという人の情報が少なすぎて謎すぎるせいもあるが、村上春樹という、この人もこの人で惚れ込んだ作家の作品のあとがきには並々ならぬ情熱を注ぐ人だとつくづく思う。

結局このせいで、私の頭はフィリップ・マーロウたちがいたロサンジェルスからズーイたちのいるニューヨークへ戻って再読することになったのだから、あとがき(添え書きというべきか)の推進力というのはスゴい。

この作品は「宗教くさい」との批判があったようだけど、私はさほど気にならなかった。たとえば数学者が一般読者向けの本の中で数式を一つ用いる度に、私のような頭の悪い読者が一人ずつ減るということはあるかもしれない。が、村上春樹の配慮ある翻訳のおかげで小説の中に「神」という言葉が現れる度に読者が一人ずつ減っていくということはまずないだろう、という程度の気持ちで読み進めることができた。作中に散りばめられた示唆と暗喩でピカピカに磨き上げられたスピード感のあるダンスのような文章にただ身を委ねてさえいれば、苦痛も我慢もなく心地よくストーリーが進んでいった。もちろん全ての示唆や暗喩が解読できたわけではない。極めておおまかにいってこれは西洋における"絶対的な"神から東洋思想における"自分たちと何ら変わりのない対等な神"へと昇華することで、実存の危機に直面した妹フラニーを救い出す話なのだけど、では深刻な内容かというと深刻であるはずなのにシリアスな空気は感じられない。都会的だけど冷たくもドライでもない、かといって特別口当たりのいい言葉があるわけでもない。しかも朝の10時半からお昼あたりまでのたった数時間の話だ。あとはズーイの持つ表情なり仕草なり、言葉遊びなりを見つけ出しては慈しんでいるだけで十分楽しいのだ。

母親のベッシーはプライバシーを侵害する世の中の代表だな、とか、「Zooey」(ズーイ)とあるけれど、雑誌か何かの「O」の文字の内側を塗りつぶしてあるということは、ホントは「Zoey」(ゾーイ)なんじゃないの?とか、米国では「ズーイ」と発音する人が多いと村上氏はいうけれど、映画(「ライ麦畑の反逆児:ひとりぼっちのサリンジャー」)の中で、教授役を演じるケヴィン・スペイシーは「ゾーイ」と発音してたなとか、わりかしどうでもいいような、その「どうでもよさ」を一人で楽しんでいることもある。とにかく何度も読んで面白さのテイストを噛みしめているだけで満足してしまうこの麻薬性はいったいどこからくるのだろう。

ただこの「フラニーとズーイ」以後、サリンジャーは「大工よ、屋根の梁を高くあげよ」以外、作品を出版していないようだ。同時期にチャンドラーの「ロンググッドバイ」が出版されていることを考えると、作家としての野心も強かったサリンジャーは(もちろん憶測ではあるけれど)、チャンドラーのようなもっと大柄で骨太な作品が書ける作家を目指したかったのかもしれない。なぜなら、サリンジャーの投影とも考えられる(厳密ではそうとも限らない)バディーやズーイにとって、長兄シーモアの死がもたらした喪失感が手に負えないほど大きすぎるのではないかと思うからだ。そしてそれが容易に解決できるものではない以上、たとえばフォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」や、中上健次の「紀州サーガ」のような一大交響詩「グラス家サーガ」を打ち立てたいという野望や願望が生まれても不思議ではない。

でも、「フラニーとズーイ」のような人工的で都会的な独特の文体を用いた、中編小説くらいのほどほどのボリュームで、文学界でたまに旋風を巻き起こしてしまうような、センセーショナルな小説を書き続けてくれてもよかったな、とも思う。あまり器用な人ではなかったようだと言ってしまえばそれまでだけど、映画も含めてなんとなく想像するのは、サリンジャーという人はチャンドラーのように“書かずにはいられない人”というより、ある条件が整ったときに書くか、特別なことはせずにただ頭の中に物語が構築されるのを純粋に待つ人だったのではないかということだ。だから出版に際しての人間関係や、今か今かと急かすように次回作を待つ読者の大きな期待が、彼の“待つ”という純粋な感覚を邪魔するように作用してしまい、煩わしくなったのかもしれない。それはべつに彼の周りに悪い人たちがいたという意味ではない。あれだけの反響を呼び起こした人なのだから次回作を期待するのは読者としてある意味では当然の心理だと思うし、むしろ彼を理解し手を差し伸べようとしてくれた心優しい人たちは多かったと想像する。

ただ、周囲の人たちと親しくなるということは、当然そこに親和力が発生する。すると皮肉なことにその親和力が彼のナイフのように鋭い切っ先と高速回転する彼独特のターンを鈍らせることにつながりはしなかったかと、2010年に91歳でこの世を去ったサリンジャーのことが今更ながら心配になる。そう考えると、村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると巡礼の年」に登場する原理的で純度の高い高度な頭脳を持つ灰田青年とサリンジャーを重ねて見てしまいそうになるが、それだと話が終わらなくなるのでここで止めておく。

ここまで書いてみて、ふと思う。サリンジャーという人は、才能豊かで米国だけでなく世界的に見ても稀有な作家であったと思う。が、彼は誰かを「描く側」というより、誰かに「描かれる側」の人間だったのかもしれない。



しばらく文章を書いてなかったのだけど、そもそも私が自分の文章をネット上に初めて公開したのはnoteではなく、読んだ小説のレビューをAmazonに載せたことに始まる。誰に勧められるわけでもなくWordで日記を書き始めた頃の2016年。完全に一人だった、でも自由だった。日記の中で読んだ小説の感想を書いてる途中、「これ、感想の部分だけ載せてみようかな?」と思い立ったのがきっかけだ。又吉さんの「火花」のレビューもこのころに書いている。だから今回もリハビリとして書き始めるなら同じように、今夏に読んだ小説のレビューを書こうと思ったのだけど、チャンドラーとフィッツジェラルドが名作すぎてまだ言葉や文章に落とせない。頭が機能不全になっているわけではなさそうだけど、どうしたものかと思っていたときに、「フラニーとズーイ」の村上春樹の長文の添え書きが私の何かを動かした。結局「フラニーとズーイ」の感想ではなく、その添え書きの感想を書いてしまった。
今はまだ何を書いても説教臭くなりそうで、そんな自分が嫌で仕方ないし、何らかのカタルシスを得られるような別のタイプの本でも探して、もう少し気分が軽くなったときにまた雑記でも書いてみます。

あ、一緒に買った「自省録」、全然読んでないや……


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