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居場所

 よく、「自分には居場所がない」という悩みを聞くことがあります。

 「居場所がない」。思春期の子どもたちがよく悩むことのように思えますが、実際のところ、この点については大人もものすごく深刻なように思えます。

 子どもたちの場合は、家が絶対的な居場所として用意されなくてはいけません。しかし、いまはこれがむづかしいのです。親に怒られて、近所のおじさんやおばさんに慰めてもらったりできた僕らの時代や心理的に豊穣だった田舎の生活と違い、いまの子どもたちにはそういう形の近所付き合いがほぼないからです。

 翻って大人の居場所といえば、主なものは家庭と職場でしょうか。ただ、これもいまは非常に不確かなものになっています。まず職場については、昭和の時代のように、仕事場で頑張れば認めてもらえ居場所を与えられるということが少なくなっています。職場の業績が悪化なんかの本人のあづかり知らぬ理由で、いとも簡単に放逐されてしまいます。

 そして、家族についてもこれまた不確かです。離婚の危機に瀕した人は珍しくありません。雇用が不安定になれば収入も減り、生活不安などから安心して生活できる環境でなくなってきています。家族も職場同様、機能集団になっていて安らぎの場ではなくなっています。

 家に居場所がないために、家族が寝静まるまで外で時間をつぶし、真っ暗になった家に帰るサラリーマンならぬ「フラリーマン」がいると報じられています。働き方改革で定時に仕事が終わったゆえの現象だということですが、見知らぬ人たちだらけのコンクリートジャングルをさまよう彼らのこころの風景を想像すると、その孤独の深さに恐ろしさすら感じます。

 子どもたちだけでなく、大人たちにも居場所が必要です。居場所というのは、「生きててよかった」「おれにも、わたしにも、存在価値があるんだ!」と思える場所のはず。それが、赤提灯でわびしく飲む酒だったり、スナックでのかりそめの出会い、あるいはパチンコでの一時の興奮だったりでは、なんとも寂しい人生です。

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