YMO 1979年8月
アルファレコード本社は国鉄田町駅の芝浦口からすぐの交差点にあった。
裏を流れる運河を渡って、潮の香りの交じった生ぬるい風が吹いてくる。運河の先を走っているのは、羽田に向かうモノレールだ。
1979年8月2日夕刻、僕は本社ビル四階の社長室に戻ってきた。
かつてこのビルは二階から四階まで吹き抜けになっていて、映画の撮影スタジオがあった。
僕は建築家の坂倉竹之助に頼んで四階に20坪ほどの部屋を作ってもらった。竹之助は川添浩史さんの親友、板倉準三さんの息子だ。
無理やり増築したため、窓があるのは一面だけで、昼も薄暗かった。コンクリート打ちっ放しのロフトのような部屋だった。
板倉さんの師でもある近代建築の巨匠ル・コルビュジエがデザインしたダイニングテーブルを社長室の事務デスクにした。書類やLPレコード、楽譜などをたくさん広げられるから、作業にはとても都合がよかった。
アルファは誇る最新鋭のレコーディングスタジオ「スタジオA」はこの社長室の真上にあった。
僕の到着時刻を正確に知っていたかのようにデスクの直通電話が鳴った。
「もしもしクニ?」
ロサンジェルスに出張している川添象郎からだ。僕は象ちゃんと呼んでいる。向こうは午前3時過ぎのはずだ。
象ちゃんは二十歳そこそこで渡米し、ラスベガスの原材料で舞台芸術とショービジネスを学んだ。スペインでフラメンコギターを弾いていた時期もある。帰国後は反戦ミュージカル「ヘアー」を日本に持ち込み、プロデューサーを務めた。僕はアルファレコードの制作担当役員に彼を迎えていた。
「やったぜ、大受けだよ。グリークシアターは満員でさ、スタンディングオベーションの嵐になったんだ」
この日はイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のロサンジェルス公演の初日だった。
(モンパルナス1934/村井邦彦✖️吉田俊宏)