禍話リライト:書き物の先生
昭和と言うのは、塾以外の様々な習い事にステータスとして価値があった時代でもあった。習字。ピアノ。絵。その他などなど。
現在は趣味だもと言えるが、当時は一家の財産や子どもの教育が反映され、他者からは評価基準のひとつと捉えられていた。
その兄弟も、弟が習い事をしていたらしい。毎週日曜日の九時頃、朝食を食べ終わったあとで「習い事に行く」と家を出るのだそうだ。
兄は、両親が弟だけに行かせているんだなと思い、関心はあったが深くは追求しなかった。彼も高校生であり、弟も中学生である。自分だけ違うと喚く年齢でもない。そもそも『らしい』というのも、弟は親へ「佐藤さんとこに行ってくる」と伝えていたのだ。
両親も両親で、友達の家に遊びに行くと思っていた。日曜の朝から家を出て、昼食には間に合うように帰ってくる弟が何をしているか。実際には家族の誰もが知らなかった。
ある日曜日。たまたま家族全員が居間に集まっており、相変わらず弟は朝から出掛けようとしていた。
「佐藤さんのとこ、行ってくるわ」
玄関に向かう弟を引き留めたのは父親だった。
「お前、よく行くけどさ。それ、どこに行ってるんだ?」
父親からすれば、何気ない疑問だった。名字はありふれていても、あまり聞き覚えがないことには気付いていたらしい。
二人の様子を聞いて、驚いたのは兄の方だった。
「え? 習い事に行かせてるんじゃないの?」
その発言に両親も顔を見合わせる。ここで初めて全員が全員、弟がどこに行っているか知らないことに気づいた。兄と両親が混乱しているなか、弟は様子を気にも止めない。立ち止まることもなく、そのまま玄関から出て行ってしまった。
「出てっ……た?」
「え……佐藤さん家って、てっきり習字かなにかで……」
「いや知らないって、知らないって……!」
まるで近所に行くように言うものだから、誰もが弟の出掛ける先を勘違いしていたらしい。弟が佐藤さんと呼ぶ家に通い始めて二ヶ月が過ぎていた。誰も知らない場所に毎週欠かさず通っているとは、どう考えても様子がおかしい。
これは帰宅したら問いつめなければならない。家に残った家族は弟の帰宅を今か今かと待ちかまえていた。普段通りの時刻に帰ってくるか不安視していたが、弟は今日も変わらずに玄関を跨いだ。全員がほっと胸をなで下ろすなか、話題の中心にされるべき弟はいつも通りに昼食へと箸をつけ始める。
不本意ながらも代表者として、一家の長として、父親は弟に話しかけた。
「お前が行く佐藤さんってさぁ、どこにお住まいだったかなぁー?」
すっとぼけた白々しい切り口だが、弟は何も不審に思わずに答えた。
「同じ地区内の、二個向こうの通りを……」
つらつらと場所を話してくれるが、父親はいまいちピンと来ていない。土地勘が無いと言うより、道を覚えられないタイプだった。
側で耳を傾けていた母親に視線で助け船を出すと、彼女も考える。見当できた場所があったのだろう。が、妙に怪訝な表情で言葉をこぼした。
「そこ……ヒト、住んでた……?」
次に顔を歪ませたのは父親と兄だ。のどかなお昼時にそぐわない、嫌な空気が流れた。うすら怖い雰囲気を感じながらも父親は話を続けるべく、強引に会話を進める。
「ま、まあいいや……その佐藤さん家で、お前なにしてたんだっけな。今日はな、な!」
あくまでも日常会話だという体で続ける父親に対して、弟も食べ物を咀嚼しながら答えた。
「かきもの」
書き物、とは。この場合、普通は習字と言うのではないだろうか。
平然とした回答に尋常ではない違和感を覚える。しかしながら、父親も言葉が見つからない。空返事で場を濁すしかなかった。
「そ、そっか。そっかぁ」
「うん、書き物」
箸でおかずとご飯を往復する姿に隠し事をしているような、後ろめたさも一切感じられなかった。当たり前だと表明されると追求もしづらい。
昼食が終ったあと、弟は何事もなく普段どおり居間でゲームに勤しんでいる。父親は場所も判明した佐藤さんという家が気になり、確かめる事にした。
兄も気になっていたため、誘われると同意して家を出た。
弟が行っているという場所には、一軒家があった。ただし、表札は無い。新聞受けにも鍵が掛けられており、風雨にさらされて錆び付いている。長年開けられていないことは一目でわかった。放置された空き家の玄関が開くだろうか。兄が試しに開けてみたが、びくともしない。他の手段を探していた父親が足元に人が行き来した足跡を見つけた。いくつもの足跡は家の裏まで続いている。
辿り着いた裏の勝手口は鍵が開いていた。どうやらここから入れるらしい。二人はおそるおそる侵入した。
引っ越しをした状態なのか、荷物は少なかった。冷蔵庫はないが食卓は残されている。中途半端に放置された家財道具が異様だった。一階を見て回っても変わった様子はない。居間には厚く埃が溜まり、誰かに使われた形跡など全くなかった。
「ここに居たんじゃないな」
「じゃあ、二階かな」
彼らは見つけた階段を上り、探索を再開する。広めの和室に差し掛かったところで、目に飛び込んできた光景に思わず足が固まった。
部屋には長机が置かれ、机の左右に座布団がある。入ってから、さらに気づいた。あれだけ一階や他の部屋にはあった埃が一切ないのだ。
ここだな。二人は直感した。
置かれた家具を見渡し、ふと近くにあったゴミ箱に視線を向けた。くしゃくしゃに丸められた和紙が沢山押し込められている。比較的潰されていない紙から、かろうじて書いてあるものが見える。しかし記入されているものをどう表現すればいいのか、困惑した。
書かれているのはよくわからない漢字だった。しいて言えば、難解漢字を理解できないまま、なぞって書けと言われて書かされたような。形だけを真似して読めもせず意味も通じない、奇妙な記号に成り果てている。
「なんだ、これ……」
こんなものを書き物と呼ぶのは、明らかにおかしい。父親は意を決し、証拠品として一枚だけ持ち帰った。
弟は二人が帰宅してもまだゲームをしていた。父親はゲームを中断させ、改めて書きものについて問いかける。すると、弟は自分以外にも同じ書きものをしている三人の名前を挙げた。通っているらしい全員が同じ地区にいる住民だった。父親も、聞いていた兄も、ぎょっとする。続いて、持ち帰った紙を広げて弟に見せた。
「書きものって、こういうのか?」
「ああ、それ。そういうの、そういうの」
「これは……なんだ?」
「わかんないんだけど、佐藤さんが書いてみろって言うからさ」
わからないものを素直に、おそらく毎週のように弟は書いている。そもそも、わからずとも書かせている佐藤さんとは何者だろうか。父親は尋ねた。年齢、性別などの具体的な人物像が欲しかったのだ。
「佐藤さんって、誰?」
弟は答えた。
「佐藤さんは、先生だよ」
「先生か……ごめんな、聞き方が悪かったな。何歳ぐらいの男性とか、女性とか」
「先生は先生だって」
語気が荒くなった。あからさまに不機嫌になっている。これ以上の言及を弟は態度で拒絶していた。父親は表面上は納得した素振りをして、また会話を切り上げるしかなかった。
閉めた戸の向こうでゲームが再開される音を背中で聞きながら、彼らは話し合った。
「これは誰に相談する……なんだ?」
「わかんないよ……あの家、誰もいなかったしさ。決まった時間だけ先生ってのがいるのかな」
「どうかな……」
弟に纏わる奇妙な出来事を除けば、今は至って麗らかな休日の昼下がりだ。反対側にある客間には来客が来ていた。母親の友人である近所の主婦が、母親と二人で茶をすすっている。
「あらぁ、こんにちは」
「こんにちは」
遊びに来ている来客の前でする話題でもない。あとで話そうと挨拶もそこそこに去ろうとすると、彼らは主婦に呼び止められた。
「なんですかご主人、それ」
「ああ、まあ。ええ、ちょっとね」
目敏い主婦の強引さに若干気圧されつつ、父親はどう場を繕うか考えながら広げて見せた。彼女はどうやら難しい書体などに詳しく、書かれていた崩し文字が読めるらしい。
主婦はひととおり目を通すと顔を曇らせて、やんわりと指摘した。
「そんなの持ち歩いちゃ駄目ですよ」
「え。これ、なんですか?」
「私も意味はわかんないですけど、戒名ですよ」
驚く父親と兄に、主婦は説明を続ける。
「多分、多分ですけどね。その漢字はどなたかの戒名じゃないですか?」
どうしてそんなものを。読んでしまった彼女の顔は言っていた。説明も出来ない父親と兄は言葉を濁しつつ、すみやかに礼を言って部屋から離れた。
聞いてしまったら、持っていられない。持ち帰ってしまった事実に父親は恐ろしくなり、すぐに紙を燃やした。
これはもっと真面目に問いつめるべきだろう。
弟の前にまた現れた父親と兄は、さっきと違い真剣な様子で彼の前に腰を下ろした。
戸惑う弟にゲームを止めさせ、話をさせる姿勢を作らせる。うって変わった雰囲気で、何時から通っているのかと問いただした。弟は緊張感漂う空気にしどろもどろになりながらも、二ヶ月前の出来事を話し出した。
帰宅中の夕方だった。オレンジ色が町を染め上げる景色のなかで、突然声を掛けられたのだという。ふっと声の聞こえた方向に顔を向けると、あの家の前で手招く人影があったらしい。事前に約束でも取り付けてあったかのように、自然と家に上がった。
それが先生との出会いだと話す弟は、異様に淡々としていた。空き家に招かれた、しかも見ず知らずの人に誘われたことを当然だと受け入れている。
状況も弟の姿勢も恐ろしかったが父親は内心恐がりつつも、威厳を保とうと話を聞き続けた。
「ずっと書いてるのか?」
「うん。書いてる書いてる」
その先生曰く、書き物は決まった日時に書き続けるのがいいらしい。日曜日の午前と全員が決めて、習い事のように続けていると言う。
「皆でやってるのか……お前は書き物の意味、わかってるのか?」
「全然わかんない」
意味もわかっていないのに、彼は二ヶ月も続けていた。戒名かもしれない文字を誰かも定かでない『先生』に教わっている。そして、集まった数名が延々と定期的に書き続けているのだ。
行われている場所に踏み込んだ二人は想像しなくても、聞くだけで異常だとわかる。客観的に見ているから判断できているが、当事者である弟は巻き込まれている状況を全く把握していないだろう。出会いから書き物の様子まで淡々と語れるのが証拠だ。
自分で何をしているか理解できていない物事など、父親は止めさせたかった。
どうしたらあの場所から息子を遠ざけられるのか。きつく否定するのも違うだろう。不機嫌になり反抗するだけと予想できる。父親は一計を案じ、自身でも意味不明だと思えるほどに滅茶苦茶なデタラメを言った。
「あのな。先生に月謝が払えないから、申し訳ないんだ。お前だけタダでやってるんだ。だから、行くな」
「え、タダでやってたの……?」
「ああ、お父さん払えないんだ。今、ちょっと調子悪くてさぁ……そこまでお金が回らないから、お前だけタダでやってもらってるんだ。悪いと思わないのか?」
明らかに口から出任せの、屁理屈だった。側で聞いていた兄からしても支離滅裂に思える。それでも父親の必死な形相に弟は引っかかり、次第に表情が不安で曇っていった。
「そっか、それは悪いな……」
「あ、ああ。先生には俺から言っておくからさ」
意外と素直な弟は丸め込まれ、佐藤さん家と呼んでいた場所に行かないと約束した。いとも簡単に事が収まったことも奇妙だ。母親にも話して気味悪がりながらも、何とかなるものだと家族は胸をなで下ろした。不思議なことに、行けないと決まると弟はあの場所についての話を全くしなくなっていた。翌週の日曜日なっても、ふらりと外に出なかった。
まるで行動だけがすっぽりと抜け落ちたか、初めから行くべきではなかったかのように。
弟の様子が落ち着き、一ヶ月も経っていない頃だった。同じ地域で一人の子どもが亡くなった。奇しくも、弟が一緒に書き物をしていると挙げたうちの一人だった。
地区内での急な訃報だ。父親は世話好きで、奇妙だが縁もあるからと兄を借りだして手伝いを買って出ようとした。
ところが。「来なくていい」と断られてしまった。家族だけで行いますから、と先方から告げられたという。急な事故や病気ではないと察した父親は、自殺ではないかと勘ぐった。しかも、人には見せられないような状況なのではないか、と。
父親は考えた末に触れなかったが、後日、母親がその子どもに纏わる噂を伝え聞いたらしい。
「何も亡くなる理由もなかったらしいの。勉強も、友達についても。でも絶対、なにか悩んでて。覚悟があっての自殺だったのよ。そうじゃなきゃ……」
「自分の戒名なんか用意しているわけ、ないものね」
(終)
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この文章はツイキャスでほぼ毎週配信されている、怖い話が聞ける『禍話』の元祖!禍話 第九夜(2022/06/25)にて約30:59から語られたものを書き手なりに編集および再構築、表現を加えて文章化したものです。
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