案山子
Aさんの思う案山子は少し違うそうだ。
「すぐ思いつくのって、生首なんですよね。マネキンの」
【案山子】
山の裾野に広がる町で育ったAさん。家から小学校までの通学路は山の麓に沿っており、いつも徒歩で通っていた。道すがらにはいくつもの果樹園があり、中でも小学生たちに有名な柿畑があった。通学路より高い位置にある果樹園を見上げると害鳥除けの多数の案山子と目があうのだ。
竹の先に固定されたマネキンの生首たちと。
黄色の目玉模様のバルーンは他の畑にもあるが、ここの主はどこで調達してくるのか美容室にあるようなマネキンを果樹の合間に設置していた。おそらく不必要なものを拝借してくるのだろう。壊れても取り替えられず放置してあるものあり、はっきり言って小学生には不気味にしか見えなかった。
「大人が見たって、ちょっと……って思いますよ」と、Aさんは言う。「案山子だから髪はむしられて、目のところもつつかれて。雨風で色もハゲてる。それがずっと四六時中、周りを見てるんですよ?」
朝は時間帯や班での集団登校もあって、わいわい話しながら進んでいれば変に注目することもない。しかし、帰り道は自由下校だ。少数で帰るしかない。全員が、特に低学年は意識して上を向かないようにしていたという。
子ども達を見下ろす、夕日の朱に照らされた薄汚れたマネキンたちの生首。陰影が濃くついたり、風に揺れたり。ふと視線をあげてしまうと、こちらの様子を伺っているように思えたのだろう。
そんな果樹園にある日、新顔が増えていた。Aさんがそれを見つけたのは登校中だった。
「新しいのがあるなって、見ちゃったんですよね。新顔っていうのもあったんでしょうけど、それだけ凄く綺麗で。『うわー、美人だ!』って。マネキンというより人形、モデルみたいだなって」
一辺倒な顔が宙に無防備に晒されるなか、あきらかに造りが違っていた。綺麗に切りそろえられた内巻きのショートボブは黒々としていて。目も唇も艶々に塗装されていた。
首だけでいるのに赤い唇で微笑む姿は華やかさがあり、今にも吐息が聞こえそうな、生きているようだとAさんは思ったという。
「あれ、やられるのかな」
同じように新顔に気付いた班の同級生が言った。
「えー、すぐダメになっちゃうじゃん」
「でも絶対するって。こないだもうちの畑の目玉、潰してったんだよ? 新しかったのになー」
二人が示しているのは最近有名な果樹園荒らしのカラスのことだった。普通のカラスよりもひとまわり大きく、賢かった。畑の気に入らない害鳥除けを壊し、作物を荒らす。大人たちの努力を嘲笑うかのように罠はことごとく避けられた。農家や役所は何度も捕獲しようとしたが警戒されているときは全く人の目の前に現れない。
カラスは此処を相当気に入ったのだろう。黒く大きな影を見るたびに地域の全員が追い返し、捕まえようとしても離れていかなかった。
あの生首の案山子たちもいくつか被害にあっていた。鳥にしてはかなり強靱な嘴をもっているのか、無惨に肌色を剥がされて顔に大きな傷が走っているのがそれだ。
Aさんたちが不安げに見上げていると、遠くから「カァァ゛ア゛ー」と野太い鳴き声が聞こえた。
しばらく経った頃。友達と下校中のAさんは新顔の美しい頬に大きな傷ができていることに気付いた。
あーあ、やったな。予想めいた確信だった。
心から迷惑だと思う前に痛々しいと思えた。塗装が剥げただけなのだろうが照らされる赤の色もあり、本当に皮膚から生々しい肉が見えているように感じたのだ。夕日に作られた濃い影が顔にかかるおかげか、心なしか悲しんでいる雰囲気もあった。なのに目だけは爛々としていた。ひりつく怒りを帯びているようにも見える。何故か圧を感じて背筋が寒くなった。
友達も見たが「やっぱり」というだけで、もう興味はなかったらしい。一緒に歩くAさんは気を取られながらもマネキンの話題を続けなかった。
その週の土曜だった。Aさんは用事でひとり、自転車で町のはずれまで出かけていた。宿題のためだったか、買い物だったかは今はもうあやふやらしい。ただ、赤い夕日が沈んだあとの見事な菫色の空は覚えているそうだ。
「思ったより帰るのが遅くなって。その頃携帯なんてないから本当に慌てて、とにかく急いでいて。で、例の畑の通りを通るんですけど。真上を黒くて大きいものが飛んで行ったんです」
大きさからアレだとわかった。また案山子にイタズラして、柿を食い散らかしに来たんだ。Aさんは、すれ違った大人に伝えようと思いながら、下を通り過ぎた。
そのときだ。けたたましい鳴き声が周囲に響き渡った。人の断末魔に似た、カラスの鳴き声だった。思わずブレーキを利かせて、止まってしまった。すぐ後ろで何かの物体がアスファルトに落ちる音が。そして、べちゃべちゃと柔らかいものが断続的に潰れる音が続く。
カラスが落下した音だというのはわかった。原因はわからない。落ちても音が止まらない理由もわからない。振り向かなければ、何もわからないのだろう。
ここまで語ってAさんは深呼吸をした。強ばらせた指をほぐし、声を整える。
「――好奇心が、勝っちゃったんです、よね」と、Aさんは続けた。
自転車を降り、おそるおそる振り向いた。Aさんの1メートルほど後ろ、道路の脇に見るも無惨なひしゃげた黒い塊があった。カラスだった面影はない。赤黒い滲みを広げた物体は確かに絶命しているはずなのに、小刻みに振動していた。
さすがにしぶといな。あれで生きてるのかな。
ちょっとした怖いもの見たさでAさんが近づこうとした瞬間、黒の向こう側で何かが横に倒れた。
「ひっ……!!」
思わず短く叫んでいた。それは頬に大きな傷を負った、あの綺麗なマネキンだった。顔の下半分が真っ赤に濡れていた。微笑んだ口が塗料の赤でなく、カラスの血で染まっていた。血塗れなのに目だけがとても艶やかだった。美しく崩れない笑顔ばかり目に行くが、あれだけ目立つはずの傷が跡形もなく消えていた。
それ以上Aさんは進めなかった。近づくと自分も『食べられてしまう』んじゃないか。そうとしか思えなかったという。
ゆっくりと体の向きを戻して自転車に乗ると、一目散に逃げ出した。必死だった。また、ぶちゅぶちゅと不気味な音が聞こえた気がしたが、振り向く好奇心も勇気も無くなっていた。帰宅しても誰にも言えなかった。
翌朝になって見に行こうとも考えたらしい。だが、マネキンの爛々とした眼が忘れられず、どちらにせよ月曜には嫌でも見るのだからと放置したそうだ。
「それで月曜の登校。畑の側を通ったんですけど、何も無かったんですよね。なんにも。染みとかも全然。カラスが出なくなったって話してたのも、別のところに行ったんだろうって落ち着いて。今でも信じられないんですけど。でも、あれからあの案山子も消えちゃったんですよね……」
後日。授業の町内インタビューで、マネキン案山子の畑主と話す機会があったそうだ。
「畑のマネキン? ああ、あれね。もう増やせないんだ。最近は誰も譲ってくれなくて、顔がわからなくなるくらいボロボロになるまでは交換しないって決めてるんだよ。だからここ一年ぐらいは立たせてないなぁ」
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