
2/22出演者紹介②
二番手は、昨年バンドの活動休止を発表し今回はソロ名義での出演を決めてくださった恩人。
篠塚将行(それでも世界が続くなら)
@sino_sstn 19:40〜
音楽に対するストイックな姿勢と、哲学的で厭世的な歌詞は、多くの人から誤解されるかもしれない。
しかし、彼はいじめられっ子であった自分を見つけてくれたリスナーの幸せを何よりも願っている。例え自分の音楽が必要でなくなろうとも。
今も泣いている誰かにそっと寄り添い続ける歌がある。
僕と「それせか」の出会いは、大学生まで遡る。
YouTubeの関連動画で開いた、「シーソーと消えない歌」を聞いた時の衝撃は未だに忘れられない。
中学時代いじめられていた僕は、そんな過去と地元を捨てて、大阪の大学へ進学した。だけど、やっぱり高校デビューも大学デビューも出来なかった僕は、なんだか同じ匂いのする人がたくさん集まっている軽音楽倶楽部というサークルに入部した。
自分がどれほど狭い世界で生きていたか。大学に入ってやっと解った。スポーツが出来なくても、いじめられることはないし、テレビの話題についていけなくても、仲間外れにされることはなかった。
地元ではほとんど誰も知らなかった好きなバンドの話がサークルではたくさん出来た。それでも世界が続くならのコピーバンドもやった。留年するほど、めちゃくちゃな生活だったけど、人生で1番楽しい日々だった。
ずっと世界にひとりぼっちだと思っていた。だけど、それせかに出会って、僕と同じようなことを考え、孤独や弱ささえも武器にして世界と戦っているロックバンドがいることが嬉しかった。
こんな僕を受け入れて、一緒に音楽をしてくれる仲間が出来たことが嬉しかった。
しかし、そんな日々は長くは続かず、就活の季節が訪れた。それせかのようなバンドになって、世界と戦いたかった。しかし、親には上京を反対され、僕は入りたくもない会社に就職し、大阪で細々とバンド活動を続けた。
僕は戦う前から屈した逃げた魚だ。
注意散漫で、要領の悪い僕は職場の先輩にいつも怒られていた。当たり前だけど、社会ではロックなんて何の役にも立たない。それどころか、孤独や弱さなんて不用な物はとことん否定される。
そして、バンド活動を続ける内に、音楽ですら一つの「社会」だということに気付いてしまった。
集客の出来ないバンドはライブに呼んでもらえず、安い給料もスタジオ代とノルマ代ですぐ消える。誰も彼もが口を揃えて言う。
「金を稼げ」
職場での怪我やストレスに加えて、エフェクターボード紛失、追い討ちをかけるように詐欺に合い、消費者金融にまで手を出してしまった僕は、とても音楽を続けられる状況ではなくなってしまった。
この時、「それでも世界が続くなら」の音楽が無ければ僕は死んでいたかもしれない。
その当時、それせかはメジャーを自主退籍し、
「最低の昨日はきっと死なない」というアルバムを出した。
夜勤明け。誰もいない一人暮らしの部屋。
登っていく朝日と近くの飛行場から飛行機が飛び立つ轟音が聞こえる。フラフラの状態でベッドに潜り込み、「最低の昨日はきっと死なない」をウォークマンのイヤホンで爆音で流しながら眠りについた。
それせかが関西に来る時は迷わずライブへ向かった。最初のライブはミナミホイールにて。
自分の為に音楽を聞けよと怒りを露わに吐き捨てるしのさんは、その日のどのミナホ出演者よりも尖っていて、そして真実に近かった。誰もが自分のライブの動員に必死になる中。彼らだけが、音楽に対してどこまでもストイックで誠実だった。
初めて見たワンマンライブは福島2ndLINE。最後に演奏されたカインは、今でもずっと耳の鼓膜を揺らしている気がする。
実家に戻り、バンド活動を再開して暫くのことだった。
いつも通り、残業仕事終わりにスマホを開くと、お世話になっていたFireloopの野津さんから一件のメールが届いていた。
「それでも世界が続くなら爆破大作戦」というイベントに出てみないかというお誘いのメールだった。
夢かと思った。だが、現実だった。
イベント当日。ステージ上でしか見たことがなかった篠塚さんと初めて挨拶をした。彼は本当に存在していた。そして、話してみると結構気さくな兄貴だった。
トップバッターのアサモドキの出番が終わると、楽屋で篠塚さんは「爆破大作戦ってそういうことかよ!いきなり本気で爆破しに来たな笑」って、おそらく褒めて?くれた?のか分からなかったけど、とにかく憧れの人にライブを見てもらえたのが、死ぬほど嬉しかった。
その日はハナレグミの「さよならCOLOR」っていう曲を教えてもらったり、ひたすら地雷のように曲を投稿しまくれ!みたいなアドバイスをもらったりして、そこから未完成でも短い曲をたくさん作るよになった。
2度目の対バン「それでも世界が続くなら爆破大作戦2」では、メンバーの都合で弾き語りO.Aとして参戦した。参加権を得る為の100RT企画なんかもやった。ステージが終わったら、やっぱりしのさんは褒めてくれて、なんて優しい人なんだろうと思った。調子に乗った僕は「いつか自主企画にも出てもらいたいです」なんて口走ってしまった。
すると、しのさんは「いつかっていつだよ!すぐやろう!」って、耳を疑う言葉をくれた。
そして、なんと2018年2月。本当にそれせかを招いての自主企画が決まった。僕にとっての「あの日」である。
企画に至るまでに、僕は本当にしのさんに個人的にお世話になってしまって、ここで話すと長くなるので、詳しくは以前投稿した私小説に詳しく描写しているので、ここでの説明は省くが、とにかく僕にとっては何度も人生のピンチを救ってもらった恩人なのである。
きっと、優しいしのさんのことだから、僕以外にもたくさんの人の話を聞いたり、音楽で誰かの心を救ったりして来たのだろう。だけど、たまに思うのは、僕らはしのさんに頼ってばかりで、しのさん自身の苦悩や絶望を聞いてあげられていないのではないのだろうか。
しのさんはスーパーマンじゃない。普通の不器用な兄貴だ。ヒーローはみんなを救う。だけど、そのヒーローを救うのは誰なんだろう。
7年前の自主企画が終わった時、しのさんが言ってくれた。「オレはお前のファンだから、これからも曲聞かせてくれよ」
しのさんは、お世辞とか言わない。それは長く付き合って来てなんとなく分かる。だから、めちゃくちゃ恐縮なんだけど、僕がしのさんの曲に救われたのなら。もしかしたら。本当にもしかしたら。
僕の作った曲で、しのさんを救うことも出来るんじゃないか?
本当に思い込みも甚だしいかもしれないけれど。
バンドが休止してからも、弾き語り+ドラムで一緒にライブをしたり、企画に呼んでもらったりして、何度もしのさんと話をして、たくさん曲を聞いてもらった。
「お前の曲は本当にいい。だけど、俺はお前が作る愛情や友情とか、ラブソングも聞いてみたい。お前のような人間こそラブソングを歌うべきなんだよ」
僕は大切な弟を亡くした。それ以上に、しのさんは多くの別れを経験してきたのだろう。自分のファンが亡くなってしまう経験もしているのだろう。
それでも。
愛ってなんなのか、僕はまだまだ分からないし、言葉にするのは恥ずかしいです。
「愛は哀しい」って、やっぱりまだ思っています。
それでも、しのさんがまだ歌うことを辞めずにバンドと、ファンの居場所を守る為に絶対やらないと決めていたソロ活動をはじめたのは、そういうことなのでしょうか?
少なくとも僕は、嬉しかったし、負けてられないとも思えました。
誰かが誰かを想い歌うこと。救いたいなんて、大袈裟なものじゃなくて、音楽で心が通じ合うだけで、この世界も少しはマシになるのでしょうか?それが気のせいでも、まだその魔法を信じていいのでしょうか?僕はまだ信じますよ。
だから、バンド復活待っています。次はお互いバンドでツーマンしましょうね。
篠塚氏にRECを担当していただいた、新曲「かといって」がそれでも世界が続くならのレーベル「YouSpica」の復活号コンピレーションアルバムに収録されています。是非聞いてください。


