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「FINAL FANTASY XIV 黄金のレガシー」クリアレビュー:これはFF14であってFF9ではない

7/7ちょっとだけ加筆修正

はじめに

この1年、当アカウントからの記事をほとんど投稿していなかったのは二つ理由がある。一つは精神をやられてしまっていたこと。そしてもう一つは「FF14」にのめり込んでいたことだ。
昨年の6月、「BLUE PROTOCOL」でMMOの思い出に浸り、「FF16」でFFシリーズの魅力に気付いた私は、その延長線が交差するように「FF14」へと流れ着いた。イヴァリースに関する松野氏の新規書き下ろしストーリーなどで前々から気になっていたものの、それなりに古くからオンラインゲーム界隈を見ていた人間にとっては、「FF14」はギスギスオンラインなどのイメージが強く避けていたのだ。
そんな人間でもアップデートを重ね遊びやすくなった「暁月のフィナーレ」にはみるみるのめり込み、プレイ時間も4500時間ほどにまで到達した。
私がPSO2を4000時間遊ぶのに3年半ほどかかったことを考えると、1年でこれというのは相当だ。

閑話休題、先日FF14の大型拡張パッケージ「黄金のレガシー」がリリースされた。私にとってはリアルタイムで迎える初の大型アップデートで、更に前回の「暁月のフィナーレ」でストーリーに大まかな区切りが付いたこともあってかなりフレッシュな気持ちで臨むことができた。

本来はここに感想記事を投稿する気は無かったのだが、クリア後にXなどでプレイヤーの反応を見てあまりにも「黄金のレガシー」のストーリーに対してあまりに賛否が別れていたようだったので、重い腰を上げて文章を書き上げようと思い至った。個々人の感想は尊重するしネガティブな意見に対して反論したいというわけではないが、ある別のものの見方として提示したくなったのでここに綴ることにした次第である。
尚、今回もネタバレを多分に含むので未プレイの方は注意して頂きたい。


1.継承の儀編

本記事では「黄金のレガシー」のシナリオを前半と後半に分けて感想を書かせて頂く。

正直に言ってしまうと序盤から中盤にかけてのこの「継承の儀編」の展開にはやや不安があった。
お使いクエストはいつもの事なのでともかく、あまりに話がトントン拍子に進んでいき感情移入できなかったからだ。

後から振り返ってみれば、継承候補者全員に心の問題があった。ウクラマトは誰よりも期待されていなかったし、実際に能力も無くそれを気にしていた。コーナは柔軟に立ち回れるウクラマトや文武共に優れた兄に羨望の眼差しを向けていたし、ゾラージャは父親にコンプレックスがありバクージャジャは生まれから歪んでたが善くありたいという気持ちはあったらしい。もっとそういった登場人物の心理描写に多く時間を割いていれば継承レースの重みや、ゾラージャと対峙する重みを感じられたのではないかと思う。序盤はギャグシーンが多く料理対決など一見ふざけているように見えるのも重みを感じなかった要因の一つだ。

しかし逆に言い換えれば、受け手にどう捉えられたかはさておき「敢えて明るく描いた」ということなのかもしれない。「漆黒」や「暁月」の暗く重厚感のあるストーリーとは打って変わって今回は新たな世界の冒険が一つのテーマで、プレイヤーキャラは世界を救わなければいけない役割から開放され、ウクラマトの成長を物語を主軸に描いていたこともあって寄り道をすることに心理的抵抗が無かった。
一新されたグラフィックの中で知らない土地を探索して、NPCのたわいも無い話を聞いたり、水辺を見つけては釣り糸を垂らしてみたり、オープンワールドチックな遊び方をする事で「夏休みの思い出」のような自分だけの物語を作り出すことができた。メインシナリオの中で語られる各地に暮らす多様な民族の文化・歴史の知識は、自分が冒険する世界の解像度を上げる役割を持っていた。

© SQUARE ENIX

感想などを見ているとこの部分がかなり賛否の分かれる要素のように見えたが、「FF14」はメインシナリオを終わらせないとゲーム的にMMO部分が始まらないという理由や、プレイヤーコミュニティがしっかりと存在する故にネタバレを踏みたくない、コミュニケーションを阻害されたくないという理由でストーリーを急いで終わらせようとする人が多い。最初から自由な未知への冒険など無く義務で冒険者をやっているのだ。そういった背景が自由度を重視するストーリーを描きにくいという構造的欠陥を生み出しているのかもしれない。暗黒騎士のジョブクエがコミュニティで人気なのも、冒険者要素を嫌っている人には共感できるからという理由はかなり大きいのではないだろうか。


2.エバー・キープ編

私は「黄金のレガシー」の予約特典がやけにFF9に偏っているのを見て、どうせ暇だからと事前にFF9をプレイしたのだが、結果的にそれが大きく本作のゲーム体験を向上させる要因になった。

まずアレクサンドリア王国という名前を聞いてFF9と関連があるのではないかと考えるし、どう関係するのか考察した。だが、実際に眼前に聳えるのはいかにもサイエンスフィクションの構造物であってとてもFF9と結びつく要素がない。そんな疑問や、「スフェーン」という謎の少女、杯を模したような「鍵」や「黄金郷の扉」「時間の流れの差」など様々な謎が物語へと気持ちを一気に引き込んでいった。
そして物語を進めるうちに水没した煉瓦屋根の街並みを見つけて、黄金のレガシーの物語とFF9の繋がりの謎が解けたような気持ちになる。一つ一つ謎が解けたり、また増えたりして目が離せない怒涛の展開だった。

そしてやはりこれを無くして語れないのがリビングメモリーという場所の存在。
FF9のラストダンジョン「記憶の場所」を意識している部分もあるのだろうが、ここで描かれていたのはソリューション・ナインのようなハイテク空間では無く、ここで暮らす全ての人にとっての黄金のように輝かしかった時間、ノスタルジックな空間で、それが郷愁とも呼ぶべき絵本のようでどこか懐かしい世界観のFF9をプレイした思い出とメタ的に重なり心に突き刺さった。ゴンドラ、飛空挺、剣劇、煉瓦屋根の街並み、ブリ虫、「君の小鳥になりたい」などどれも「FF9の思い出」を少しだけなぞるように作られている。

FF9をプレイしていた事でより「平和だった頃のアレクサンドリアはこうだったのかもしれない」と想像を膨らませやすかったし、それによってアレクサンドリアの民を愛しているスフェーンにより感情移入できた。だからこそ後に引けず戦わざるを得なくなった、出会いがもっと早ければ共存の道が有り得たのにできなくなってしまった後悔のような感情がより涙を誘った。

そんな場所で主人公一向が行わなければいけないのが「ターミナルのシャットダウン」という作業。
「死や別れの存在しない世界」を是とするスフェーンを止める覚悟の表れとして、敢えて「知って、好きになった人間たち」に対して自らの手で別れを経験しなくてはいけないイベントだ。今回のストーリーのテーマとして、やはり「メメント・モリ」というか、「死や別れを受け入れなくてはいけない」というのは多分にあると思う。それはスフェーンが死や別れ、星海と魂の巡りを否定してレギュレーターという歪なものを作ってしまったというのもあるが、死や別れに対する救いとしてヨカフイ族の死生観が度々語られている事からも伺える。

しかし私はこのボタンをなかなか押すことができなかった。他人を犠牲にして成り立っているとは言え、前述したようにスフェーンや多くの登場人物にとってのこんな「幸せな空間」を破壊するのがあまりに悲しすぎるからだ。泣きながらマップの隅々まで隈なく探索してしまった。物語の流れ的に別れを経験するのが辛いというのももちろんあるが、加えてもし自分がこのゲームの開発者だったらこんなに作り込んだマップをたかだか数時間で見えなくしてしまうのはあまりに勿体なさすぎると思った。

なぜこんなにも別れが惜しく、悲しいのか。よくよく考えてみると、この演出はオンラインゲームであるFF14だからこその演出だと気付いた。
もし仮にこれがオフラインの1人用RPGだったら、大抵はラスボスを倒したあとラストダンジョンがどうなろうと知った事じゃないだろう。潰れても潰れなかったとしても、どのみちこのゲームを辞めてしまうのだから思い出の中に納めるしか無いのだ。多くの人は「FF10」にて夢のザナルカンドが綺麗さっぱり無くなってしまうとしても、シンを止めることに躊躇は無かっただろう。

しかし、FF14はこれからも長く続くであろうオンラインゲームだ。プレイヤーはこの世界で多少なりともまだ生き続ける。またリビングメモリーを訪れる機会も少なくないだろう。だからこそ、「もう二度とこの光景を見られなくなる」事、ひいてはこの世界で語られる「死」の重みが生まれる。
「ターミナルのシャットダウン」という作業はプレイヤーが直接行う事で死の重みを感じさせ、「死は誰にでも訪れる」の説得力を生みだすと同時に「プレイヤーが覚えている限り心の中に生き続けている」という救いを提示する演出なのだ。

もしそれを意識して作っていて、そのためだけにあんなに作り込んだマップをストーリーの都合上数時間で見られなくしてしまう演出を仕掛けたのだとしたら脱帽だ。この演出だけで「黄金のレガシーをプレイして良かった」と思えた。


それと最後に、「ここまでFF9をオマージュしておいてなぜガーネットではなくスフェーンなのか、スタイナーではなくオーティスなのか」という疑問についての自分なりの解釈を書き記しておく。

おそらくこれは「これはFF14であってFF9ではない」というメッセージなのではないかと思う。FF14にはヒエンやラムザ、ゴルベーザと言った「過去作のキャラクターと同名かつオマージュしているキャラ」が多数登場する。だからガーネットやスタイナー、ビビやジタンといった人物を登場させる事も容易に出来たはずだ。しかしそれをしないのは、「FF14の鏡像世界にある、エレクトロープで発展したアレクサンドリア」であって「FF9のアレクサンドリア」では無いと強く印象付けるためなのではないかと私は捉えている。

実際にこのネーミングによって、アレクサンドリアという名前は共通しているもののFF14の思い出もFF9の思い出も私はそれぞれ別の魅力のある良かったものとして等しく覚えていることができている。
尤も「暁月でFF4オマージュをやりすぎた」という反省の一面もあるのかもしれないが、私としては原作を丸々再現することだけがリスペクトの態度だとは思わないし、むしろ原作と全く同じコピーゲームを作ることには意味がないと考えている(幸いにも、FF9はSteamやSwitchなど現行機で遊べるようになっていて原作は犠牲にならない)ので、敢えて「似ているけど違うもの」を強調しているのは先述したメタ的な思い出補正と併せて好印象だ。

表面的にはエレクトロープで構成されたアレクサンドリアとFF9のアレクサンドリアは全くの別物だが、歪に発達した科学技術によって魂の循環を乱す、自分たちの「死の恐怖」の回避のために別世界を侵略するなど根本的にはFF9の筋書きをオマージュしているのも、「コピーではないがオマージュではある」理想的な形と言える。FF9も、さまざまな出会いを通して命や死を理解する事が特にビビの物語のテーマだった。
「黄金のレガシー」はFF14とFF9の思い出が一緒にならないように、しかしFF9の思い出がFF14にうまく作用するように作られているように感じた。


まとめ

本作のようにシリーズ物のタイトルで常に万人にとって最高傑作を超える作品を作り続けるのは現実的に難しい。一度評価されたからと言って同じような作品を作ってもただの二番煎じにしかならないし、人気が出る要素を詰め込めば人気が出るわけでもない。プレイヤー側にも変化を望む人もいれば望まない人もいる。
ここまで比較的ポジティブな評価点を書いたが、本音を言えば私の中では「漆黒のヴィランズ」を超える感動を得られなかった。だが、新鮮な体験ができたことには間違いないし、特に終盤の演出は「漆黒のヴィランズ」「暁月のフィナーレ」にも全く劣らないと感じられた。
コミュニティ内で毎度のお決まりのコンテンツを定食と揶揄したりもする本作だが、"お決まり"を出し続ける事に甘んじず、物語、その他の要素も含めてこれからも常に新しい挑戦をするアップデートをしてもらえたらと願う。

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