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エッセイ的なもの:Vの先を見たい

この記事は怪文書です。怪文書を読みたくない人に悪影響を及ぼす場合があります。体調に異変を感じたら直ちに閲覧を中止し、スマートフォンをトイレに流して歯を磨いて薬を飲んで寝てください。

先日、Vtuberグループ「にじさんじ」に所属するバーチャルライバー「黛灰」が引退したというニュースが話題を呼んだ。
理由は所謂「方向性の違い」というもので、運営するANYCOLOR社との協議の末落とし所が付けられなかったとのこと。各SNSでは別れを惜しむ声や、ANYCOLOR社の方針に対するの疑問の声、界隈の将来を不安視する声などが散見された。
わたし個人としても、特定個人の崇拝は忌避感があるため遠目に見ていただけに過ぎないが、「にじさんじ」を含めvtuberを見てきた人間として今回の件をきっかけに改めてコンテンツの将来性に陰りが見えると感じざるを得なかった。
(当記事は黛灰が引退した理由について憶測を語る事を目的とした記事ではない)

ここ1年のANYCOLOR社の大きな動きといえば、去年6月に一般オーディションを休止しVTA(バーチャルタレントアカデミー)というタレント養成所を創設したこと、そして今年6月に東証グロース市場に上場した事が挙げられる。
前者は、歌って踊れてストリーミングの技術的スキルがあってコンプライアンスをしっかり守るタレントライバーの育成を目的としていて、後者は会社として株主と持ちつ持たれつの関係を保ちより安定的に大きく利益を上げ成長する事を目指している。
この2つの動きが目指す先にあるのは「歌って踊れて炎上しないアイドルを推させる商法を確立し、継続する」事であると推察できる。

結論から言うと、わたしは「炎上しない」のを目指す事が面白くなくなっている気がしている。
冒頭で触れた「黛灰」が引退する際の配信では多くの親しい配信者が訪れ、別れを告げた。一方で配信には顔を出さない人間もいて、顔を出さない理由をTwitterで説明する姿が見られた。
なぜ説明する必要があるのだろうか?
それは別れを偲ぶ会に来なかった事で「薄情なやつだ」と批判される(炎上する)可能性があるからで、本心でもそうじゃなくてもしっかり表明する必要が出てくるのだと思う。
炎上するかしないかのスイッチを視聴者が持っている事をちゃんと理解しているからこそ皆理性ある行動をするのだ。

よく「フォロワーの数は向けられた銃口の数」と言うが、自分が銃で撃たれても平気だったとしても、その銃口が自分ではなく親しい仲間に、或いは自分のお陰で仕事に就けてる人たちに向けられているとしたら、身動きが取れなくなる人は多いのではないか。
大所帯になればなるほど向けられている銃口の数と銃口を向けられている人が増える。その状況こそが銃口を向けられている者同士で面白さよりも視聴者に引き金を引かせないことを第一に行動させるようになったのではないかと思った。
映画やゲームのポリコレ配慮と本質的には同じで、クリエイターがそう表現したくなかったとしても、炎上すれば作品作りに関わってきた多くの人たちが路頭に迷う事が想像できるから、配慮された表現を盛り込んで社会的な風潮に従順であることをアピールせざるを得ないという仕組みだ。

昔から、VtuberやYouTuber・ニコ生主などネット上で活躍するエンターテイナーにわたしは社会不適合者としての希望を見出していた。ロクに学校に通っていなくても、ハンディキャップを抱えていても、メンヘラでも、コミュ障でも、オタクでも、ニートでも、頭のネジがぶっ飛んでるヤツでもネット文化のコミュニティの中では人権があって自由に生きていける事を象徴していたように見えた。

しかし今はこれだ。大手企業Vtuberはそこら中のサラリーマンと同じように会社の面を汚さないために常識の範囲内でお行儀良く活動せざるを得なくなっているし、個人配信者は四方八方への配慮に加え、知名度を上げて視聴者数を稼ぐために個人配信者同士のコミュニティを作ったりなどSNS活動に重点を置かざるを得なくなっている(最終的にはパイの奪い合いになるはずなのでわたしにはすごく茶番をやっているように見える。)
なのでその活動に適性が無い人はスポットライトが当てられづらくなってしまっているのではないか。

これでは現実を見せられているようで凄く残念な気持ちだ。
毎日お行儀良く学校にちゃんと通って友達を作ってクラスメイトと全体主義の中で仲良しこよしでやってる人間より、学校をサボって人生を棒に振って好きなことを好き勝手やってる人間の方が絶対に面白いし、元々のネット発エンタメはそういう人たちが活躍している場だったと思うのは思い違いだろうか。
「炎上」が無く各々が鋭い感性のままに自由に発信できる世界があったらと思わずにはいられない。

とは言え、そんな懐古をしていても現実としてこうなってしまったのだから仕方がない。多くの人にとって今の形こそがVtuberに求めているものなのだろうと思うし、わたしはそれを否定できるような偉い立場でもない。
では道を切り開いてきた社会不適合者たちの居場所はもう無くなるのか?いや、陰鬱で閉塞的な現実からネット文化が生まれたように、今の陰鬱で閉塞的なネットからもいずれ新しいエンターテイメントの世界が生まれるはずだ。わたしはそれが見たい。すぐにそれが見つけられるように常にアンテナを張るようにしたい。 



(わたし自身はというと、定期的に名前や人格、人間関係を消したくなる病気なので配信者には多分向いてない。言い出しっぺのくせに。)

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