ハミーについての疑問を検討してみる

 「バゴプラ」掲載小説「かわいいハミー」は、私がこういう最後にダババーっと畳みかける構成を好き好き大好き超愛してることもあってお気に入りの一作なのだが、一般公開後に為された一つの問題提起をきっかけに、界隈が紛糾した。

 そのへんを考えないで読んだので、言われてみればそうだなと思い、正当性について考えた。考えれば考えるほどに、正当性はない。


 ところが、作品の出発点に倫理的な疑問が生じることと「かわいいハミー」が感動作であることとは、不思議と両立している。なんでなのか考えてみたが、話し運びの効果を理由のひとつに挙げられると思う。
 物語が進むにつれて、博士の掲げたテーゼは後景に追いやられる。サリュ夫人のもとで「役立ち」が空転し、花屋では役に立ったのに人生の無常を突きつけられ、ジーノとの暮らしでは(彼の生業を支える描写はあるが)無為な行為にふけってみても予期せぬ展開によって暮らしは破綻する。研究所に至って、やはり役に立てないハミーのままならなさはピークに達する。こうして「役に立つ」の様々なパターンをやりきったタイミングで物語は転換し、「幸せになる」というテーゼが前景に出る。ここのギアチェンジがミソなのだと思う。役に立とうが立たまいが不幸で不憫でどん詰まりのハミーが幸せを思いはじめることで、「役に立つ」という概念は一歩退く(感覚的にはジーノのあたりで「役立ち」が薄れている気もするが。ジーノとの交流は「役に立つ」という概念を読み手がどうとらえるかの分水嶺になっている。一緒にいることが「役に立つ」なのだと捉えることも、役に立たない行動をとることがそれまでの価値観へのアンチテーゼなのだと捉えることもできる)。
 ハミーは映画のように記録を編集していく。思い描かれるのは、ハミーが関わってきた人間たちの「幸せな様子」だ。ハミーは人々の幸せを思う立場になる。物語は「役に立つ」の話でも、「ロボットのハート」の話でもなくなる。「他者の幸せ」の話になる。他者の幸せが「ハミー自身の幸せ」にも転化しているように読め、混然とする。役に立っているから幸せというよりも、彼らが幸せそうにしているから幸せなのだと、そんなふうに思える。つまりハミーが編集してみせた情景は、ハミーの独白のようにも機能している。ハミーの来し方をみてきた読者は、吐露された心情(の役目を果たしている場面たち)に触れることで、ハミーの内面を想像することを促される。こうして感情移入(あまり好きではない言葉なのだが)したところで、博士の発言で物語は閉じ、「幸せ」を巡る話としての印象づけが強固になる。
 出発点から着地点が離れていること、その着地点にエモーショナルな展開を集中させたこと、終盤のスピード感。そうした要素が、博士への違和感から目を逸らす効果をもたらしているのだろうなあと思う。書いてみて思ったがすごく当たり前のこと言ってしまった気がする。
 それと、博士についての無理筋な空想(ロボットになって生きている)も効いている。この荒唐無稽さによって、ハミーの切実さが浮き彫りになり、博士を悪いものと捉えることへの躊躇いが生まれる。ハミーは博士のことを悪く思っていないことが提示されるので、読者は博士を疑わない。当人同士が良いと思ってるなら良い関係性なのだというのは時として危うい考え方なので、あくまで構成がもたらす効果の検討ですよ、ということは書いておきたい。こういった断り書きが必要になるあたり、危うい点を回避して押し切った物語という指摘は当たっているのかもしれない。

 もちろん「博士の正当性を問う必要がない」わけではない。倫理的な引っかかりを覚えるのは分かるかな、と思う。ハミーについての博士の見通しが不明なので、ハミーが不幸なかたちで使役される可能性を考慮しなかったのかとか、検討できる余地は多い。どんどん悪く読める。
 とはいえハミー的には、博士は、ハミーの幸せを祈ってくれた人物である。博士の言葉が、ハミーが夢想した幸福に入るほどのものだという事実をもって、私はハミーと博士のふたりを、良いものとして読みたい。「幸せにおなり」と言ってくれた人がいる、その事実はきっと、ハミーを支えたはずだ。 


 などと言い切って良い感じに終わろうと思ったが、たとえば別れ話の最後に相手から「幸せになれよ」とか言われたらメチャクチャ嫌だし根に持つなと思ってしまった。なにごともシチュエーションと関係性による。決定的な解を導くことができないのが、ものごとの総体で構成されているフィクションのおもしろみの一つかと思うので、色々と考えようがあるのは良いことだ。

 ここからは余談である。私はこの物語を、万人の幸せという永遠に叶わない理想を願う一途な叫びだと捉え、共振し、好意的な感触を抱いている。けれども、客観的に考えれば、ハミーは不幸なまま終わっており、この物語はまごうことない悲劇だとも思う。その悲劇性に自覚的な物語であるのかについては、私は自覚的であると感じているが、しかし読者がハミーの実際面での悲劇性を自覚できているかどうかによっては、読者自身の独善性や無自覚なグロテスクさについても問いが突きつけられるような気がしている。これは本当に書くかどうか迷った。怒られても仕方がないことを書いている自覚がある。人の読み方にケチをつけてはならないと思っている。けれども考えていたらこういうことになってしまった。いちいち気にしていたらフィクション自体を楽しめなくなり、書き手としても何にもできなくなるので、ずっと避けてきた考え方でもある。そのまま無視していい問いかけなのか、どうしたものかなと思う。


 だいぶ脱線したが、私としては、とてもとても、好きな作品であることは、すでに書いた通りである。私はままならない生との向き合いかたを探るハミーのことが好きだ。なんとかこのあと、ハミーには、幸せになっていてほしい。

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