10年以上人が死ぬ現場で働いて思う事 ~HSPの救急・集中ナース~
【人の死に触れたい 人の本質を知りたい】
私がナースになった理由はなんだったっけとふと思った
元々は心理学が好きだった
中学生のころユングに触れて人間の心の構造について知りたくて夢中で本を読み漁った
人間関係が苦手で生きづらさを感じていた私にとって、他人と自分の中身を知ればもっとうまく生きられるのではないかと思ったからだ
食事や睡眠や性欲といった生理的欲求の事、承認欲求などの自己実現の欲求の事、親との愛着障害の事、自己認識の事…
知りたかった情報が沢山で目から鱗だった
中学生で専門書を読んでるのは自分でもちょっと変わってるなと思うが、INFJとHSPは思考が大人びていることが多いという
感受性が豊かだから幼いころから膨大なデータを自然と収集して自分なりに分析しているのがその理由なのかもしれない
心理学という新しい知見を得て、心理カウンセラーとかもいいかもなって思っていた あと絵を描くのが好きだから芸術系の道に進むのと悩んでいた
一見違うように見えて、【人の心理を見つめる】と【絵を創作する】は同じ作業のように思う
結局自分と人の心に向き合って考えたことを「言葉で話す」か「紙に描くか」って出力方法の違いな気がする
【解剖学も好きだった】
厨二的思考でグロ画像とかをちょっとかっこいいとか美しい芸術って思っていた
ちなみに今でも内臓とか人体の構造などは人間の神秘と芸術を感じて好きです
「人間てよくできてるなぁ そして皮膚の下にはこんな臓器が詰まっているんだ!」って純粋に感動した
「私は今、人間の表面しか見ていない、袋の外側(皮膚)しか見てないんだ!それで顔のパーツの位置でかわいい顔とかブサイクとかを判断している…人間の社会は外側だけ見てなりたっている 中に詰まってる臓器の方が多いのに…不思議だなぁ…」と思った
そして純粋な心で「いつか解剖してる現場を見たい 中身見てみたい」と思った
戦争の写真集も一時期めちゃくちゃ見ていた
人が一部つぶれていたり、道で物のように転がされて死んでいるのは衝撃だった
普段周りには元気に歩いてる人間しか見ていないけど、一つ場面が違えばこうやってモノみたいになることもある
平和に人が動いて笑ったり怒ったりしている、私が見ている世界の方が普通じゃないのかもしれない と思った
人間とモノとの境目はなんだろう?心臓が止まった時?体のパーツが足りなくなった時?それは体の何パーセントが無くなった時?それを決めているのは誰?人の死とはなんだ?脳が動かなくても身体があれば生きていることになるのか?生きているの定義は?
そんな果てしない思考が駆け巡っていた
「人間の死に触れる仕事がしたい 生きると死ぬとはどういうことなのかこの目で確かめたい」
と思った
言い方は悪いが人の身体を切り開いて中身を確認する合法的な方法は医療者になることだ
そうやって純粋な興味と探求心でナースを次第に志していったんだと思う
「人を助けたい」とかいう王道の動機を言えないのが申し訳ないが、INFJなので人の役に立ちたいはもう自動機能で備わってるので割愛します
【人は死ぬという当たり前のことを知る】
医療現場で働いている者として淡々と内情を語ることを許してほしい
そこにはドラマのような美しさやお涙頂戴な展開もないので…
集中治療室で働いていると当たり前だが患者は死にかけていることが多い
というかそういう人しか入れない
普段人の死に触れることがタブー気味な日本で生きているとその光景は異質だ
なんせほぼみんな意識がなく点滴に繋がれて呼吸器で息をしている
「意識なく横たわっている人間と機械が並んでいる部屋」
それが集中治療室だ
最初のころはその光景にびっくりした
人間が動かない、モノのようになっている
皮膚は2倍くらいにむくんで腫れあがり破けていたり、色んな毛穴から浸出液が垂れ流れているので専用の吸水パッドにくるまれていたりする
循環が悪いので身体は紫色や赤黒く変色していたり、皮膚にホースほどの管が刺さって血を外に排出していたりする
腹を切り開いて手術した人は、術直後は内臓が腫れて収納できないので腹を開いたまま透明の大きなシールで蓋をしてあり中身のスポンジが見えた状態だ
日常で見ないもののオンパレードでぎょっとしたが1週間もしたらそういうもんだと慣れた 自分の順応性の高さにもびっくりする
というか勉強と業務が大変すぎてその状態がグロいとか気持ち悪いとか感情を持っていられない
食らいついて状態を観察して患者が死なないように目を光らせて管理しないといけないので自分の感情なんてどっかに置いてけぼりだった
そしてどれだけ手を尽くしても人間は死んでいく
それは悲しいというよりも「人間の限界」なんだなという印象が近かった
人間も動物だから例外はないんだな、と
それに人生とか家族とかふれあいとかストーリーをつけて悲しがったりいたわったりするのは人間の特有の儀式なんだと思った
自然にとったら今たたいて死んだ蚊も、不運な事故で死亡することになった人間も同じような現象なのかもしれない
特別であって特別でないんだな、と不思議な感覚だった
でもできるだけ自分の看ている患者に手を尽くして「よりよく生きてよりよく死んでいく」っていうのが私にできることなのかもしれないなと思った
そのためには必死に勉強して技術も磨いた
呼吸器やペースメーカーや人工心肺とにらめっこしてDrや先輩に質問して 話せるようになった患者を励まして、家族を支えて…とできる限りのことはしたと思う
色んな事をやりながら「人間の本質とはなんなのか 生きるとはなんなのか 死ぬとはなんなのか」と考えたりするのは楽しかった
ちなみに今も答えにはたどり着いてはいないが
「死は特別ではない」と身をもって知れたことは私の人生にとって大きなヒントになった
大切な人が死ぬことはやっぱり悲しくて泣いたりするだろうけど、それは繰り返されてきた当然のことで自然にとったら悲しいとか嬉しいとかもないただの現象にすぎない。自分が死ぬこともだ
だから今生きてる人生をラッキーだと思って、いなくなるまでのボーナスタイムを思うように生きるのっていいんじゃないかなって思った
何があっても結局死ねるのならいいじゃんって
私は死ぬことについて「解放」って認識が強い
どんなにつらくても痛くても最後には0になれる
その代わりに楽しい部分も0になっちゃうけど まぁその時楽しんだ気持ちは消えないんだから悪くない条件じゃんって思ってる
人はもっと死を身近に感じることが大切じゃないかと思っている
究極的な最終地点である「死」を何度も経験すると
結構色んなことがどうでもよくなってきて力を抜いて生きやすくなる
どうせ死ぬしな~!ってなる
でも死ぬ前に苦しむ期間が長いのは嫌だな~ここは医療者として勉強してきた特権で疼痛コントロールを上手くやってもらえるよう提案したい…そんな虫のいい話あるのかな
私に沢山の死を見せて学ばせてくれた患者さん、ありがとうございます
私もいつか死ぬのでまた出会えたらお話してください
といいつつ死んだら天国も地獄もなくただ消えると思ってる現実主義者でもありますが、そんな人の心がやわらかくなるような来世がある話も人間が作り出したいじらしさでもあって嫌いじゃないです
人間の死は特別で特別じゃないもの
こうやって人間を俯瞰的に見てるのに人間関係にちゃんと悩む自分も謎です
意識ないとただのたんぱく質なのにね…しゃべった途端に問題が生まれるって不思議ですよね
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