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相手の違いを認めて信頼すること〜エゴの対消滅〜
分かり合えないという悲しみ
私が何度も輪廻していた分かり合えない悲しみと孤独について話したい。
ある人と数ヶ月前から仲良くなりとても親近感を感じていた。
その方は、とても博学で真理の探究をしていたので私にいろんなことを教えてくれた。勧めていただいた本のお陰で、私の意識の進化も進み感謝していた。でも、彼がハマっているもの好きなもの、勧めるものには興味のあることと、ないことが両方ある。
それは人それぞれ感覚が違うし、ごくごく当たり前のことだが、彼にとっては彼が好きな物を私と共有してからでないと話の土台がないから楽しめないでしょうというスタンスだった。
だから会うたびに彼は自分が好きなものの話をしてきて勧めてくる。
私はそれが徐々に嫌になってきた。私は彼と話がしたいのであって、彼の内側からくる話がしたいのであって、彼が崇拝するものの話を聞きにきたわけではないと思うようになった。
それから、しばらくして私は彼に思っていることを話した。そして、私は自分が今好きなことやハマっている本を彼に勧めた。
彼はそれを快くは受け入れなかったのだ。お互いに分かり合えない空氣ができて、私は孤独感と失恋したような悲しみに襲われた。
悶々とした日々を過ごした。
支配とコントロール
この出来事は私は何度も経験して輪廻していることだった。分かり合えていないと自分を勝手に孤独に追いやっていく。
その人のことは好きなのに、彼の好きなことを一緒に好きになれないともう仲間ではないよね。という短絡的な考えが悲しみを招く。
彼は私の鏡だったのだ。
自分の好きな物を相手にも共有してもらって、それがハマる人が仲間だと感じる。これは共通な趣味があると仲良くなったりするので、それに違和感を感じない人が多いかもしれないが、どこかでそれ以外を排除しようとする心の動きが私の心を苦しくさせていた。
相手を自分の好みの人にしたい、同じ物を好きになって欲しいという支配とコントロールが見え隠れしている。
人間関係において、無意識に、当たり前に私がしていたことだった。
今回はこの悲しみの輪廻に氣付き、私は彼への感謝が溢れた。
好きなことを共有できなくても、あなたの意見に同意はできなくても
あなたという人をとても大切に思っていることは本物なんだと、
それが違いを尊重することなんだと。
だから関係性において、まだやり残しがあるなら氣がすむまでやるのが良いと思う。そこに正解や不正解はなく、未練を残さず、その悲しみの感情の輪廻から抜けるということが大切だと思う。
私は相手をコントロールして仲良くなるということを無意識にしていて、結局は自分の思い通りにならない人を排除してきたのかもしれない。
本当の意味で違いや、個性を認め合うことは、身近な人たちの中でのやりとりで浮き彫りになってくることではないか。
それが、自身の中の個性を認めることにつながる。自分の意見や好きなことを堂々と見せていくことができることで輝きを放つことができるだろうから。
今回は彼が鏡となって私のエゴを炙り出してくれた。
そのエゴを見出すと癒されて、私の中に統合していく。
悲しみも孤独も大切な私の中の感情であり、愛というギフトなのだ。