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短編小説:抜けないチャーシュー

暖簾をくぐると、ラーメン店特有の香ばしいスープの香りが鼻を刺激した。午後1時半を回っていたが、店内にはまだ数人の客が黙々とラーメンを啜っている。
油で少し光ったカウンターや、湿気で曇った窓ガラスが、長年の歴史を物語っていた。

お客は空いているカウンター席に腰を下ろし、目の前に広がるメニューをじっくりと見渡した。
視線はチャーシューメンに固定される。
彼の顔には真剣さが漂っていたが、どこか考え込んでいる様子でもあった。

「いらっしゃいませ!」
店員の元気な声が響き、周囲の客が一瞬だけ顔を上げた。

お客はメニューをじっくりと眺めた後、ふと店員に向かって顔を上げ、真剣な表情で尋ねた。
「すみません、このチャーシューメンって普通のラーメンと味は変わりますか?」

店員は一瞬目をパチパチとさせ、少し不思議そうな顔をしながらも、すぐに丁寧に答えた。
「いえ、チャーシューが5枚乗るだけで、基本的には同じラーメンですよ。」

お客は満足げに頷くと、メニューを閉じて注文を始めた。
「なるほど。じゃあ、チャーシューメンのライスセットでお願いします。ただし…チャーシューとライス抜きで。」

店員の顔が一瞬、驚きで固まった。
時間が止まったかのように動きが鈍くなり、眉をひそめた。
「…え?チャーシューメンのライスセット…で、チャーシューとライス抜きですか?」
店員の声は少し戸惑っていた。

お客は頷きながら、真剣な表情を崩さない。
「そうです。」

店員は額に少し汗を滲ませ、どう理解していいのか困惑しつつも、再び確認する。
「それだと…普通のラーメンと同じになりますけど…?」

「いいえ、僕が頼みたいのはチャーシューメンのライスセットです。ただ、チャーシューとライスはいらないんです。」
お客は譲らない様子で、再度強調した。

店員はしばらく黙り込み、眉をしかめたまま、考えを巡らせているようだった。
カウンター越しの厨房の方をちらりと見やるが、誰も助けてはくれない。
深いため息をつき、もう一度お客に向き直った。
「お客様、それだと普通のラーメンとまったく同じになりますよ。ラーメンを頼んでいただければ…。」

「いやいや、違います。僕が頼みたいのはチャーシューメンのライスセットなんです。でも、チャーシューとライスは抜きでお願いします。」
お客の声は少し苛立ちを帯び始めた。
彼の表情には、まるでこの注文に込めた特別な思いが伝わっていないことへの苛立ちが見え隠れしていた。

店員は、冷静さを保とうとしながらも、若干イライラを隠し切れない様子で再度口を開く。
「ええと、それはつまり、普通のラーメンということですので…ラーメンをお出ししますね。」

「違います!僕が言ってるのは、チャーシューメンのチャーシュー抜きです!」
お客は少し身を乗り出し、声を強めた。

店員は一瞬身を引き、少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「それだとチャーシューメンの意味がありません。普通のラーメンで良いですよね?」

「いや、違います!僕はチャーシューメンのライスセットの料金を払いたいんです。」
お客はなおも食い下がった。
彼の表情は真剣そのもので、決して引き下がるつもりはないようだった。

店員は一瞬言葉を失い、少しばかり目を見開いた。
「…料金?」
困惑が深まる表情で、店員はさらに問いかけた。
「つまり、普通のラーメンを頼みたいけれど、チャーシューメンのライスセットの料金を払いたい、と?」

お客は力強く頷いた。
「そう!まさにそれです!」

店員は深く息を吐き出し、カウンターに両手をついて少しだけ体を預けた。
「お客様、当店ではいただいた料金に応じたサービスを提供させていただいております。チャーシューメンのライスセットの料金をお支払いいただく場合、必ずチャーシューとライスが含まれます。」

お客は引き下がらず、真っ直ぐ店員を見据えたまま言った。
「だから、それを抜いてくださいって言ってるんですよ!チャーシューメンの料金を払いたいんです!僕はね、ここのラーメンが大好きなんですよ!美味しすぎるんです!だから普通のラーメンの料金じゃ失礼だと思ってるんです!」

店員の表情は少しずつ険しくなっていく。
「それなら、ラーメンを頼んでいただいても何も失礼ではありません。当店はお客様にご満足いただける商品を提供するため、適正な料金を設定しております。それに基づいて、提供しておりますので、ラーメンをラーメンの料金でお支払いいただくのが筋です!」

お客は強く反論する。
「筋?僕はこの美味しいラーメンにもっと払いたいんですよ!それがチャーシューメンのチャーシュー抜きの意味です!サービスの対価は美味しさに応じて支払うべきでしょ?そっちは金額にこだわってるんじゃないですか?」

「お客様こそ、こだわっているのはどちらですか!?」
店員の口調も鋭くなり始め、店内に張り詰めた空気が漂い始めた。
「チャーシューメンはチャーシューが乗って初めてチャーシューメンなんです!その上で料金をいただいているんですから、チャーシューを抜くならラーメンになります!」

「じゃあ、チャーシューメンを頼む人はみんな間違っているとでも?僕はその美味しさをわかってるから、もっと払いたいんだって言ってるんです!」
お客の声はさらに高まり、他の客たちもちらりとこちらを窺い始めた。

「いえ、誰も間違っていません!」
店員は冷静を保ちながらも声に苛立ちを感じさせた。
「ただ、チャーシューの分の料金をいただくのであれば、チャーシューが乗っていないと不公平です!」

「僕が納得してるんだから、不公平じゃないでしょう!」
お客は強い口調で言い放った。

店員は堪らず声を張り上げた。
「それはお客様の自己満足です!お店としてのポリシーを理解してください!」

「ポリシーなんてくだらない!僕の自由だろ!」
お客はついにカウンターを拳で叩いた。

店の中は、ちょっとした緊張が漂い始めていた。
忙しそうにラーメンを啜っていた他の客たちも、少しずつ目線を上げ、カウンターで繰り広げられているやり取りに注目し始めていた。

店員は若干背筋を伸ばし、冷静な表情を崩さずに立っている。
顔には疲れや焦りが一切見られず、まるでこの手のクレームに何度も対応してきたかのような熟練の冷徹さを感じさせた。
彼は手を軽く腰に当て、まっすぐに相手の目を見据えたまま、毅然とした態度を崩さない。

対してお客は、徐々に苛立ちが顔に浮かび始めた。
額にじんわりと汗が滲み、手は拳を握っては開き、どうにか自分の感情を抑え込もうとしているのが見て取れた。
しかし、抑えきれない苛立ちはその場の空気に緊張をもたらしていた。

「自由には責任が伴います!」店員の声が響く。
抑揚のない冷たい声だったが、その言葉には揺るがない決意が込められていた。
「払った料金には提供される商品が伴います。それがお店のルールなんです!」

お客は少し顔を赤らめ、ぐっとカウンターに体を寄せる。
周囲の視線が集まっているのも構わず、声を荒げた。
「ルール?ルールなんてくだらない!僕は美味しいラーメンに敬意を示してるだけなんだ!」

「敬意なら、どうぞ普通にラーメンをお楽しみください!」店員の冷静な表情は全く崩れない。

その一言で、客はさらに苛立ちを募らせた。
両手をカウンターに叩きつけ、少し前屈みになって店員を睨みつける。
「いや、僕はチャーシューメンのチャーシュー抜きでチャーシューメンの料金を払いたいんです!」

このやり取りに、他の客たちも小声で何かを囁き合い始めた。
店内にはどこか緊迫した空気が漂い、すすり音すら小さくなっていく。

「それは不可能です!」店員は一歩も引かない。
冷静な口調で続ける。「お客様、どうか冷静になってください。」

お客の顔はますます赤くなり、こめかみの辺りに怒りのしわが浮かんできた。
「冷静なのは僕ですよ!あなたが意地を張ってるんです!」

この言葉に店員は一瞬だけ目を細めたが、すぐに毅然とした表情を取り戻す。
「意地を張っているのはどちらですか!?私たちは商品に誇りを持って提供しているんです!」と、反論する。

お互いの言い分がまったく噛み合わないまま、店内の空気はさらに緊張感を帯び、まるで爆発寸前のバルーンのようだった。
どちらかが折れることなく、張り詰めた糸がピンと引っ張られている。

「チャーシューメンのライスセットのチャーシューとライス抜きをお願いします!」お客の声は明らかに怒りを帯びていたが、どこか焦りも見て取れた。

店員は険しい表情を保ったまま、無感情な声で同じ回答を繰り返した。
「申し訳ございませんが、先ほどもお伝えした通り、チャーシューメンのチャーシュー抜きというご注文はお受けできません。」

店員の言葉が冷たく響くたびに、他の客たちの視線もますます集中していく。
何が起こるのか、誰もが静かにその場の行く末を見守っていた。

「なんでだよ!」ついにお客は苛立ちを爆発させ、カウンターを軽く叩いた。
「普通のラーメンでいいって言ってるんだから、そっちも損しないはずだろ?何が問題なんだ?」顔を真っ赤にしながら、苛立ちを隠すことなく再び詰め寄る。

「問題というのは、お客様がチャーシューメンをオーダーしたいと言いながら、実際には普通のラーメンをお召し上がりになる点です。」店員の声には一切の揺らぎがない。
「料金はチャーシューメンのものをいただくことになり、それは他のお客様に対してフェアではありません。」

「フェア?」お客の顔はさらに赤くなり、ついには声を荒げて叫んだ。
「そんなの俺の勝手だろう!自分が好きで多めに払おうとしてるんだから、文句を言う筋合いはないはずだ!」

他の客たちは一瞬視線を逸らすが、それでも耳を傾けていた。
ラーメンを啜る音は完全に止まり、静まり返った店内に二人の会話だけが響き渡る。

店員は動じることなく、淡々と続けた。
「お客様のお気持ちは十分に理解いたします。しかし、当店では正確なメニューの内容とそれに見合った料金で商品を提供するのがルールでございます。それを曲げることはできません。」

お客の額にじんわりと汗がにじみ、ついにカウンターを力強く叩いた。
「それじゃ、客の要望には全然応えない店ってわけだな!そんな店、二度と来るかよ!」声は完全に荒れ、怒りを隠すこともできなくなっていた。

店員は冷ややかに、それでも決して感情を表に出すことなく答えた。
「それはお客様のお考えです。ですが、私どもはすべてのお客様に対し、同じサービスを提供する責任がございます。それに従わない形でのご注文は、いかにご厚意があってもお受けできません。」

お客は一瞬、口を開けたまま固まった。
しかし言い返す言葉が出てこない。
無言のまま店員を睨みつけ、振り返って店の外へと向かって歩き出す。

店員は背後から淡々と「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております。」と冷静な言葉を投げかけた。

お客は振り返ることなく、乱暴にドアを開け、外へ出て行った。
店内には乾いたドアのベルの音が響き、一瞬の静寂が訪れた。

他の客たちは息を潜め、ラーメンを啜る音がようやく小さく戻ってきた。

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