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二宮忠八のこと(1)


(これは2023年12月にエッセイの会に投稿したエッセイです)                                           

前回、調布飛行場から小型プロペラ機で神津島に行ったことを書いた。

以来、すっかりこの小型飛行機の魅力に取りつかれ、飛行機の歴史などを調べていくうちに、二宮忠八に行き当たった。というのも、聞いたことのある名前だったからだ。

今から二十五年ほど前になるだろうか、友人の紹介で知り合ったKさん(実際の名前は忘れたが四十代の男性)が飛行機好きの人で、ライト兄弟より前に日本では複葉機が造られており、世界で初めて飛行機を飛ばしたのは日本人なのだという話をしてくれた。この時初めて二宮忠八という名前を知った。残念ながらKさんは直後に病に倒れ、帰らぬ人となってしまい、飛行機の話もそれ以上聞くことができなかったのだが、二宮忠八という名前とカラス型飛行器や玉虫型飛行器といった名前はなぜか覚えていた。

二宮忠八の功績は現代でもあまり知られていない。しかし、1954年に、イギリス王室航空協会が彼をライト兄弟より前に飛行機の原理を発明した人物として認定しているという。

今回はこの二宮忠八について書いてみたいと思う。

ちなみに、二宮忠八の生まれ故郷である愛媛県八幡浜市矢野町という場所は、私が中学三年の夏まで在籍した八幡浜市立八代中学校のすぐそばでもある。不思議な縁を感じる。


二宮忠八(1866-1936)は愛媛県八幡浜市の裕福な海鮮問屋の四男として生まれた。彼は幼い頃から好奇心旺盛で、五歳の時にトビウオを見て、自分も空を飛べたらいいのにと思ったという。しかしながら、裕福だった実家は兄たちの相次ぐ放蕩と父親の死により没落し、忠八は学業優秀だったにもかかわらず中学に上がることもできず奉公に出なくてはいけなかった。この間、忠八は小銭を稼ぐために凧を制作した。彼の作った凧はユニークな絵柄やよく揚がることで大変な人気を博し、「忠八凧」と呼ばれた。忠八は呉服屋、印刷所、写真師の下働き等を経て、薬屋を営む伯父を手伝うようになり、薬学の勉強をして物理や化学にも興味を持った。その後、測量士の助手となって設計図の書き方も学んでいる。

二十一歳のとき自ら志願して丸亀の歩兵連隊に看護卒として入隊。二十三歳のとき、彼の弁当を狙って降下してくるカラスを見て、鳥が羽ばたかずとも飛べることに気づき、航空力学の原理を発見し、翼を固定する飛行機のアイデアを思い付いたという。それまでは、多くの人が、空を飛ぶために鳥の翼を真似て羽ばたくことで飛ぼうとして失敗していた。

その二年後、二十五歳のときに、忠八はカラス型飛行器(注1)の模型を完成させる。これはゴムとプロペラで飛ばす、いわゆる模型飛行機の最初の形であった。カラス型飛行器は36m飛んだという。この模型飛行機は二宮忠八が世界初だと言われていたが、実は1871年にフランスのアルフォンス・ペノーが同様の模型飛行機を発明している。

航空機の歴史は世界じゅうで同時多発的に発展してきたようで、世界各地で人々は空を飛ぶことを夢想し、様々な工夫をこらして大空へのあこがれを実現させたいと奮闘していたようだ。気球やグライダーはかなり早くから発明されていたが、動力で人を乗せて飛ぶ飛行機はまだ発明されていなかった。

二十六歳のとき、忠八は人を乗せて飛ぶ玉虫型飛行器を考案した。玉虫が飛ぶとき、外側の硬い羽は固定されて揚力を生み、内側の羽を羽ばたかせて推進力を生む。これを参考にして彼は複葉機を考案し、二十七歳の時(1893年)、玉虫型飛行器を完成させている。この飛行器は、当初人を乗せて自転車のように人力でこいでプロペラを廻すという仕組みだったが、人力で空を飛ぶには無理があると気づき、動力が必要だと痛感。動力さえあれば玉虫型飛行器は必ず空を飛ぶと忠八は確信していた。

玉虫型飛行器

1894年に日清戦争が始まり、忠八も看護兵として従軍し、戦場で大勢の傷病兵の治療に当たった。彼の考案した飛行器があれば、傷病兵を運べるし敵の偵察もできると考え、軍上層部に幾度となく玉虫型飛行器のための動力(ガソリンエンジン)を提供してくれないだろうか、そうすれば飛行器はかならずや日本軍の役に立つと力説したのだが、軍の上層部はにべもなく彼の申請を却下した。人間が空を飛べるはずがない、空を飛べることを証明して見せたらエンジンを提供しようと言ったという。彼の飛行器は動力がないので完成せず、その間に、同じく熱心に飛行機開発をしていたライト兄弟に先を越されてしまう。ライト兄弟には協力者も多く、三千回にも及ぶ実験の末、1903年に世界初の飛行実験に成功するのである。当時の新聞には、なぜ日本人がこの飛行機を発明しなかったのか、それが残念だ、と書いてあり、忠八は無念の思いに駆られて完成させた玉虫型飛行機をハンマーで叩き壊し、以後飛行器制作に携わることをきっぱりと断念したのだった。忠八の玉虫型飛行器はライト兄弟より十年も早く発明されていたにもかかわらず日の目を見ることはなかった。

しかしながら、二宮忠八の玉虫型飛行器の設計図は完璧であったため、彼の提案を却下した軍の上層部は後に彼の功績を認め謝罪の手紙を送っている。

 日本で航空機が本格的に始動するのは、1910年。この年、フランスに留学した徳川好敏大尉(ファルマン型飛行機の操縦法を学んだ)と、ドイツに留学した日野熊蔵大尉(ハンス・グラーデ式飛行機の操縦法を学んだ)の両氏が飛行実験に成功している。これが日本の航空機時代の幕開けと言われている。翌1911年には国産の民間機として初の奈良原式飛行機が飛行実験に成功している。

思えば、1903年にライト兄弟が飛行機の実験に成功してからわずか64年後の1967年、人類はアポロ11号で月に到達するのだから、その進歩のすさまじさがわかる。

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 残念ながら、今回は締め切りまでの時間が短く、おおまかなことしか書けなかったが、次回からは航空機の歴史も含め、大空の旅について書いていきたいと思う。

女性パイロットの先駆者といわれるアメリア・イヤハートなど、航空界には魅力的な人物が多数いる。残念なことに飛行機は戦争により発展してきたという事実もあるのだが、空の旅は人を自由にし、解放してくれるとアメリア・イヤハートは言っている。

人間は大空にあこがれ、地球の重力から解き放たれて宇宙に飛び出すように運命づけられているのかもしれない。(続く)



(注1)「ひこうき」という言葉は二宮忠八の造語だと言われている。彼は「機」ではなく「器」を使って「飛行器」と名付けた。

(注2)なお二宮忠八については、吉村昭著「虹の翼」が詳しく、またネット上にもたくさんの情報があるので、興味のある方はぜひそちらをご参照ください。

(注3)所沢の航空発祥記念館に行き、日本の航空機の歴史についての展示を見てきたのだが、残念なことに二宮忠八の名前は見つからなかった。 




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