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来し方行く末 ①


時が経つのは早いもので、今年で会社の設立から38年が過ぎようとしている。設立当初の心許ない気持ちを知るだけに、良くぞ長きに渡って続けることが出来たと感慨深いものがある。会社が困難を乗り越えて存続することが出来たのは、番組製作に奔走したすべてのスタッフの努力の賜物であるが、会社がこれから更に30年、40年と活躍して行くためには、過去を振り返り、将来を展望していくことが大事であると思う。そこでその一助になればとの願いから、この会社が何を大事にして、どう歩んできたか、会社の来し方を振りかえってみようと思うに至った。


第1回 会社の設立について

テムジンの設立は、1987年5月である。当時、私はTBSの制作局の一角に専用のデスクを与えられ、人材派遣のような形で、TBSの番組制作に携わっていた。すでにテレビの世界に入って10年以上が経っていたとこから、その経験を買われて仕事は途切れることなく、休む間もない忙しさであった。そうした日々のなかで、自分の企画をなかなか実現出来ない事態につらい想いをしていた。当時は、テレビマンユニオンやドキュメンタリージャパンなどの先行する製作会社のスタッフが華々しい活躍をしており、同世代のその姿を見て羨ましく思ったものである。しかし、雇われの身では中々実現は難しかった。

すでに中国に対して関心を持つようになっていたこともあり、実現したいと思う企画をいくつか抱えていた。そうした私の思いを知っていたTBSの岡庭昇氏は、事あるごとに独立を勧めるようになった。岡庭氏は仕事の傍ら文芸批評家として知られた人物で、季刊誌「同時代批評」を編集、発行するなど、どちらが本業か分からない忙しさであった。その為にも番組制作の上で重宝されていた。

岡庭氏とは長い付き合いで、TBSの情報番組「そこが知りたい」(1982年-1997年)では、何本も一緒に仕事をした。「そこが知りたい」は1982年にスタートした文字通り社会の関心事にスポットをあてた番組で、文化情報部に所属する6、7名のプロデューサーが持ち回りで制作にあたっていた。私も岡庭氏の下で初めての中国取材となる「中国残留孤児〜敗戦の旧満州〜」や帰国した残留孤児の境遇に迫った「続中国残留孤児」、食品汚染をテーマにした「飽食の時代シリーズ」、折からの米不足を追った「緊急報告・米が無い!」、アメリカ各地に取材した「アメリカのコメ戦略」、日系米国人の歴史を追った「リトル東京100年」など、今でも記憶に残る意欲的な番組を制作することが出来た。今振り返るとこれらの制作を通して私自身がテレビの世界でやっていく手応えを掴んだような気がする。しかし、スタートから2年もすると、温泉やグルメ、通勤沿線などの視聴率が取れる企画が優先されるようになり、初期の社会的なテーマは次第に敬遠されるようになってきた。思うに、1953年から始まったテレビ放送が、その可能性をめぐって試行錯誤を重ねた時代から視聴率と言う評価基準が確立して画一化していく転換期であった。提案しても企画が通らない失意のなかで、TBS社員の岡庭氏は、「俺は会社を辞めると失うものが多いが、お前は何も失うものがないのだから」と、妙な理屈で独立を勧めるのだった。独立することで、自らの企画を実現することが出来るのではないか、可能性に賭けた選択だった。

こうして会社を作ることになったのだが、さて社名をどうするか。後々、何故「テムジン」かと、社名の由来について良く聞かれることになるが、その社名が誕生したのは、いつものように制作局の一角で雑談に興じている時であった。社名を巡って勝手なことを言い合っていた時に、岡庭氏が「テムジン」と提案したのである。その当時、我々の間では井上靖の「蒼き狼」が読まれていたこともあり、テムジンは周知の幼名であった。岡庭氏がなぜ「テムジン」と提案したか、真意は聞き漏らしたが、私は、聞いた途端にその案が気に入った。それは世界制覇云々と言うよりは、何よりもロマンがあり、語感の響きの確かさ、意思の強さを感じる言葉だったからであった。草原の覇者の幼名とは、社名として少々唐突であったが、反対する人は余り無く、意外とすんなり決まった。ただし法人登記にあたっては画数の縁起を担いで平仮名とした。

周辺の思いにほだされて独立を決意した次第だが、私としては「自分の企画を自分で製作する」ための独立であった。当初はたった一人の会社設立であったが、同じ思いを持つ連中が次々に加わってきて、1年もすると10人もの陣容に膨れ上がった。それでも会社を維持出来たのはそれぞれが携わっていた仕事を抱えてきたおかげであるが、私自身は、これ以降は企画書書きからテレビ局回りと、意に反してプロデューサー業に専念することになった。

こうして若い連中が加わってきたが、後にNHKスペシャルで目覚ましい活躍をすることになる池谷薫もその一人である。以前から親しくしていたが、飲み屋のカウンターでクジラの伝統漁の番組を作らないかと誘ったことを覚えている。この企画は、それから数年後の1992年にNHKスペシャル「人間は何を食べてきたか〜灼熱の海にクジラを追う〜」として実現している。

会社発足の動機となった「自分たちの企画を自分たちで製作する」と言う思いが最初に結実したのは、1989年に製作した中ソ和解の特集番組だった。長い間対立していたソ連のゴルバチョフ書記長が中国を訪問することになり、TBSのニュース番組から声が掛かった。予定していた特集番組の取材が暗礁に乗り上げてしまい何か急きょ差し替える企画はないか。提案したのは新疆ウイグル自治区の西の果てで、母国と分断されて暮らしているロシア人たちの国交再開に期待するルポだった。放送までの限られた時間のなかで、まったく独自のルートと人脈によって国境地帯の取材を実現し、ゴルバチョフ訪中に間に合わせることが出来た。会社設立から2年後のことで、早々に設立の目的を達成できたのは実に感慨深い出来事であった。

会社設立の「自分たちの企画を自分たちで製作する」と言う理念については、これまで何度も話してきたが、何の経営基盤も持たない小さな会社が周囲から評価され、今日まで存続出来たのはこの理念に依るところが大きいと思う。テレビ局の都合によって番組を作るのではなく、自分の企画を実現するために提案する。それこそがこの会社が大事にしてきた信念であり、将来にわたって堅持していきたい理念である。

2025年1月

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