見出し画像

なぜ人を殺してはいけないのか?

 「どうして人を殺しちゃいけないの?」という質問は、子供がよく抱く疑問だ。だが、大人もこの問いに対する明確な答えを持っていないことが多い。ネットで他の人のこの問いへの答えを調べてみると複数ヒットした。例えば、「大切な人が殺されるのは嫌でしょう?」「自分が殺されるのは嫌でしょう?」といったものである。しかし、これにはいくつかの問題がある。

 まず、「自分や大切な人に害が及ばなければ他人の命を奪ってもよい」という解釈が成り立ってしまう点が挙げられる。これでは、他人が自分にとって無関係であったり害が及ばない存在であれば、殺人を正当化する余地が生じてしまう。また、「大切な人が殺されるのは嫌だ」という感情的な主張は、普遍的な倫理の原則としては弱い。

 次に、「人を殺すと悲しむ人がいるからいけない」という理由にも限界がある。この論法だと、「悲しむ人がいなければ殺人は許されるのか?」という疑問が浮かび上がる。例えば、孤独で身寄りのない人や悲しむ人がいない人の命が軽視される危険がある。

 また、悲しむ人がいることを理由に殺人を禁止するならば、逆に喜ぶ人がいる場合や、社会的な理由で殺人が喜ばれる状況であれば、それを正当化してしまう可能性がある。例えば、過去の戦争や粛清では「敵が減ることで喜ぶ人がいる」という理由で多くの命が奪われたが、こうした行為を正当化する危険性が生じる。このように、感情に依存する理由だけでは説得力が不十分であるといえる。

 では、「なぜ人を殺してはいけないのか?」この問いの答えは、歴史を振り返るとわかりやすい。逆に、人々が互いに殺しあうとどうなるのかを考えると結論は明白だ。例えば、戦国時代や古代中国の春秋戦国時代では、人々が欲望や自己利益のために簡単に約束を破り、嘘をつき、殺しあった。その結果、争いは絶えず、国家は混乱と不安定に陥った。殺人が常態化すれば、社会全体が崩壊し、秩序は成り立たなくなるのだ。

 こうした混乱を防ぐために、統治者たちは「嘘をつかない」「約束を守る」「人を殺さない」といった基本的なルールを徹底させた。これらは単なる道徳や宗教の教えではなく、社会を維持するための現実的な規範として機能した。そして、一般の人々には、わかりやすくシンプルな「してはいけないこと」を教えることで、国家の秩序を守る狙いがあったと考えられる。

 また、道徳や宗教が国家の治安維持に悪影響を及ぼすと判断された場合には、容赦なく弾圧されることもあった。たとえば、日本では江戸時代にキリスト教の弾圧が行われた。このように、宗教は単なる「人を救う教え」ではなく、国家の治安を維持するための道具として利用される面もあったのだ。

 「人を殺してはいけない」という規範は、社会の安定と繁栄を守るための知恵の結晶であり、歴史を通じて形作られてきたものだ。言い換えれば、それは支配者たちが秩序を維持するために定めた「必要な約束事」にほかならない。

 規範が社会的必要性だけではなく、人間の本能に基づいていることにも触れておこう。人間は生まれつき他者の苦しみに共感し、それを避けたいと願う性質を持つ。進化心理学の観点からも、他者を助けることが群れ全体の生存率を高めるため、殺人を防ぐ規範が形成された可能性がある。この「共感」という基盤は支配者の意図を超えて普遍的なものであり、単なる道具としての規範では説明しきれない。

 さらに、現代では人権思想が広がり、「人の命はかけがえのないものである」という価値観が共有されている。この思想は、歴史的に見れば新しいものかもしれないが、殺人を禁じる規範をさらに強固なものにしている。個々人の命の尊厳を認めることで、規範は単なる「社会の安定装置」ではなく、倫理的・普遍的なルールとして現代の価値観にも適合しているといえる。

 つまり、「人を殺してはいけない」という規範は、支配者の都合だけでなく、人間の本能的な共感や、普遍的な倫理観に基づいて進化してきたものである。そしてそれが社会の安定を支える基盤となり、同時に個々人の尊厳を守るものとして現代に受け継がれているのだ。

 「なぜ人を殺してはいけないのか?」の答えは、最終的には「社会の安定と人間の共感に基づく普遍的な倫理」というあまり面白くない結論に収束する。


いいなと思ったら応援しよう!