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6月のこと(曖昧な記憶と、鮮明な記憶)


©️米よし子

雨の日よりも晴れた日が好きだ。太陽の日差しは気持ちがいいし、天気を気にせず好きな服が着られる。梅雨明けが待ち遠しい。なんとなくフジロックの準備を始める。夏がやってくるワクワク感までもう一歩届かない、もどかしさを感じる時期。身近な誰かの誕生日がある訳でもない。
6月は私にとって、特別思い入れのある月ではなかった。

それが16年前、ガラリと変わってしまった。その報せを聞いたとき、私は当時のアルバイト先にいた。就職活動も本格的になってきた2008年の6月。

いつものように放課後はアルバイトに行き、一緒に働いていた大学の同級生と談笑していた。ふと携帯を見ると、母からメールが入っていた。

「お兄ちゃんが事故で亡くなりました。帰ってきて!!」

3週間前に会ったとき、笑顔で握手して、お盆にまた会う約束をした兄。いったい何を言っているんだろう。黙ってその場を離れてエレベーターホールに向かい、父に電話をかけた。
電話越しの声は静かに泣いていて、今さっき対面して確認してきたところだと言った。電話を切って、その場でへなへなと座り込んだ。

上司に事情を説明して、当分お休みをいただくかもしれないと伝えた。心配した友人がバイクで家まで送ってくれた。バイト先に戻っていく友人を見送り一人になった瞬間、急な恐ろしさが襲ってきた。

足の裏は床にしっかりとついているのに、何もないところに立っているような感覚。ふと足元を見ると真っ暗闇のようだった。

翌朝には叔父が車で迎えにきて、実家まで乗せて行ってくれるらしい。まずは帰省の準備をしなければ。でも、多分このまま一人でいるのは良くない。別の友人に事情を話し、叔父の迎えが来るまで家にいてもらうことになった。

帰省の準備は慣れているはずなのにどうにも要領を得ず、荷物を出したり入れたり、持っていく必要のないものを探し回ったり、自分でも何をやっているのかわからなかった。
そんな私をよそに、友人はベッドに寝転がって漫画を読んでいる。私から話しかけない限り、何も聞いてこなかった。時折ポツポツと他愛のない話をしながら、結局荷造りは明け方までかかってしまった。

日が長くなってきて、早朝の空はすでに明るい。友人にお礼を言って、迎えに来た叔父夫婦の車に乗り込んだ。
後部座席で横たわる私に、彼らもまた何も言葉をかけなかった。4時間半、無言の車内。こうした言葉のない時間にずいぶん救われたように思う。それに気がつくことになるのは、もう少し先の話になるけれど。

実家に到着し、靴を脱ぎ玄関をあがる。縁側の廊下を通って茶の間の隣の部屋に入ると、ひとつの大きな布団を大勢の人間が囲んでいた。全員が一斉にこちらを見る。
私は持っていた鞄をどさっと落として布団のもとに駆け寄り、兄にすがったところで涙が一気に溢れてきた。にわかに信じられず、実家に着くまでは流れなかった涙。

「報せは嘘なのではないか?」「本当は兄は生きているのではないか?」昨日から心をチラついていた万が一の可能性は確実にゼロになってしまった。

180cmを超える大きな体は布団におさまらず、足が少しはみ出していた。顔には白い布がかかっている。声をあげてわんわん泣く自分がいる傍ら、それを天井の端から見つめている自分もいた。
冗談じゃない。まるでドラマではないか。作られた映像を観ているような不思議な感覚だった。

母が「信じられないね、こんなこと」と言って私の肩を抱いた。私はこのとき、母の泣き顔を生まれて初めて見たのだった。

夜になり、改めて兄の顔を見た。大きい事故にあったとは思えないほど、生前の顔立ちを保っていた。誰が治してくれたんだろう。そんなことを思いながらその顔に触れた。冷たい。咄嗟に手を離してしまった。

姿形は兄そのものなのに、もう中身が何も入っていない容れ物になってしまったのだと、そのとき初めて知った。魂がなくなるというのはこういうことなのか。「死」というものに直面した瞬間だった。

そこから通夜、葬儀と忙しない日々が続いた。抜け落ちている記憶と、鮮明に残っている記憶。どれが本当の記憶なのか、境目は曖昧だ。
26歳で死んだ兄。27クラブを指して「俺も27歳で死ぬのかも」なんて冗談めいて話していたことを思い出したりもした。

2週間ほどしてから東京に戻った。子を亡くした親の痛みは計り知れない。家族は私と話しているようで、私を通して兄と話していた。
当時22歳。兄を亡くした悲しみと、自分が透明人間になったようなつらさに耐えきれず、未熟だった私は就職活動を理由に実家を離れられることにほんの少し安堵した。

この頃の私は、毎日別人になっているのではないかと思うほど目まぐるしく感情が変化していた。兄を想って菩薩のように穏やかな気持ちになる日もあれば、勝手に死んでしまった兄を恨む日もあった。

遠い親戚には「もうあなたしかいないんだから、お父さんとお母さんのためにこっちに戻ってきなさい」と何度も言われた。うるせえ、てめえが決めるなと心の中で毒づいた。

そんな中、私の心をいくつかの言葉が照らしていた。「兄弟が亡くなったことはとても辛いが、それで君の人生の行き先を変えることはない」と言葉をかけてくれた、向かいの家のおじさん。
「これから色んな人が色んなことを言うだろうが、気にすることはない。自分の道を自分で選びなさい」と言ってくれた母方の叔父。

二人に共通していたのは、実家を離れて別の土地で働いているということだった。そして両親は、私に「戻ってこい」と絶対に言わなかった。
多くの友人や大人たちが気遣ってくれ、そしてそっと寄り添ってくれた。

就職活動は難航したがなんとか念願叶って希望していた業界への内定が決まり、実家に帰省して両親に報告した。

「自分で決めた道だからと根を詰めすぎず、つらくなったらいつでも帰ってきていい。あなたの家はここにある。ずっと応援している。一つだけ約束してほしい。誰かからお金を借りないこと。借りるなら私たちから借りること」

すごい両親のもとで育ったんだな、と思った。果てしない悲しみに包まれながら、何も言わずにもう一人の子どもを見守り続けることがどうしてできたのだろう。

東京で就職した私は、年に何度も実家に帰省する。仏壇と墓で色んな話をする。新しい音楽、新しい映画、連載が再開した漫画、早く亡くなってしまったロックンローラー。
出張に行けば両親に土産を送り、時間を見つけてはしょっちゅう電話をかける。

私にとってなんでもなかった6月は、大切な人を失い、そしてたくさんの人からたくさんのものを受け取った季節に変化した。
私を形づくる曖昧な記憶も鮮明な記憶も、この湿った空気の中にある。

©︎米よし子

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