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11月のこと(庭先のみしらず柿)


©︎米よし子


ひんやりとした空気の中に、オレンジ色の実がにぶく光る。冬のはじまりの風景。
そういえば東京ではあまり見かけないな。庭先や畑に植えてある柿の木は、田舎のアイコンのような気もする。

私の育った会津地方では、「みしらず柿」という種のない渋柿が古くから栽培されている。焼酎をふりかけて二週間ほど置くと甘い柿に転生するという不思議な食べ物だ。
実家の柿の木を見ると、妙な安心感を抱くのはなぜだろう。

秋も深まってきた頃、どっさりなった柿を両親が収穫し、祖母が渋抜きをしたりせっせと外に吊るして干し柿にする景色をよく見ていた。子どもの頃はそれほど興味を持たなかったような記憶がある。

なんせ大量なのだ。毎日毎日食後に出てきて、うまいけど、そりゃうまいけど、本当はチョコレートやケーキの方が食べたかった。
干し柿の楽しみ方はもう、ますますわからない。やけに甘いしねっとりとした食感も謎だ。どこがいいのかさっぱり理解できなかった。

上京してしばらくすると、実家での生活がどれだけ贅沢だったか身にしみてわかるようになる。

ミョウガの値段を見たときはひっくり返った。祖母の家の庭先でわあわあと無限に生えているものが、三個で二百円!
我が家の田畑から収穫される米や季節の野菜が、自動的に食卓に並んでいると思っていた自分を恥じた。
中でも驚いたのは果物。もう、高い高い。食後のフルーツが全く当たり前でないことが都会の貧乏学生になってようやくわかったのだ。

東京に来て初めての秋、スーパーに並んだ立派な柿をひとつ買ってみた。傷ひとつないつるりとして綺麗な柿。覚えていないが数百円はしただろう。
家に帰ってしょりしょりと皮を剥き一人で食べてみると、柔らかくてとても甘い、どこかのおいしい柿だった。
でも、なんかこれじゃない。少し不格好だけどさっぱりと甘くて、少し身のかたい実家のみしらず柿が食べたいな。無性にふるさとに帰りたくなった夜だった。

時が過ぎ、祖母に代わって母が柿の渋抜きをしたり、庭先で干し柿を作るようになった。毎年この季節になるとになるとたくさん送ってもらい、11月は毎日のように食べている。

そっぽを向いた幼い頃の分まで食べているような気持ち。三十代半ばを過ぎた自分にじんわりとしみる、やさしい甘さ。干し柿なんてクリームチーズと合わせたりしちゃって、最高の濃厚デザートになった。

冬の柿の木。誰が植えたのかな。祖母や祖父が生まれる前からあるのかもしれない。どうして私は、この風景が好きなんだろう。
食料が減る季節の貴重な栄養源や保存食として暗躍してきた柿への、「これがあれば冬乗り切れるぞ」的な人間としての本能が働くのか? いやいや、そういうことでもない気がする。

柿がなる。収穫して、渋を抜いたり、干し柿を作ってくれる人がいる。変わらない家族の存在にほっとしているのかもしれない。ずっとあってほしい、私の好きな原風景。

いつかは私がこうやって、柿を吊るしたりするのかもしれないな。

©︎米よし子

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