5月のこと(もし一日だけ過去に戻れるなら?)
先日、一緒に夕食をとっていた友人から突拍子もない質問が飛んできた。
「人生で、どこか一日だけ過去に戻れるとしたらいつがいい?」
そんなこと、考えたこともなかった。
こういう質問の相場は大抵「人生をやり直せるならいつからがいい?」で、各々がそれぞれの回答でやいやい盛り上がる。そんなとき私はいつも「どこからもやり直したくはないなぁ」と思っていることが多い。
“いつだって今がベスト”を自訓としている身としては、自らの辞書に「やり直し」の文字はない(と思いたい)。単純に同じことを同じ熱量でやるのも疲れてしまう。
でも、一日か。それならば、ある。思い出すたびに胸が張り裂けそうになる、ずうっと心に残り続けるたった一日が、私にはあった。
大学4年生の5月中旬。就職活動が始まり、遊び呆けたキャンパスライフに終わりを告げる時期が近づいていた。
授業、就活、アルバイト。その合間をぬって、私はまだまだ一生懸命遊んでいた。そんな中、地元に住む兄から連絡があった。
「来週、そっちのライブを観に行くんだ。帰りは高速バスだから、その前に新宿でランチでもしよう」
4つ上の兄は私にさまざまなポップカルチャーを教えてくれた。山積みの本やCDや漫画や雑誌が兄を作り、そして私を作った。
あらゆるものを彼から学び、小さい頃は喧嘩もしたが大きくなってからはよく一緒にライブやフェスにも出向いた。
周囲からは「こんなに仲の良い兄妹は珍しい」と言われるほど。兄の友人には「あいつは君が可愛くて仕方ないみたいよ」とこっそり教えてもらうことも多く、尊敬する彼に可愛がられていることは私の誇りだった。
私の進学に伴う上京との入れ替わりで、東京で遊び呆けていた兄は実家に戻り公務員になったが、都内で好きなアーティストのライブなどがあると遊びに来ていたのだ。
連休にはこまめに帰省する私だったが、その年のゴールデンウィークはサークルの合宿だったか、たまたま実家に帰らなかった。
正月ぶりに大好きな兄に会えることが嬉しく、「絶対行く!」と返信をしたように思う。
でも兄と会うはずだったその日、私は前日に友人と飲み過ぎて寝過ごしてしまった。起きたら約束の時間だったのだ。
やってしまった。でも私は、たいして焦っていなかった。優しい兄だ。こんなことでは可愛い妹には怒らない。
「ごめん、今起きた。本当にごめん!またお盆に会おう」
すぐメールを送った。二日酔いで頭もボサボサ。新宿に行くなら化粧もしなければならない。今から急いで用意するのも正直面倒だった。
盆はいつも通り帰省する。また3ヶ月後に会えるんだし。そう思っていたら、兄からすぐに返信があった。
「まだ少し時間があるから、そっちまで行くよ。最寄り駅教えて!」
兄は新宿から池袋で東武東上線に乗り換え、私が住む中板橋まで来てくれたのだった。当時私が住んでいたマンションと中板橋駅の間にあった橋の上で私たちは落ち合った。
5月にしては暖かく、天気が良い日だった。川沿いの桜の木々は新緑になったばかりで、さらさらと気持ちよく揺れていた。
着の身着のままで出てきた私を見つけて、半袖の柄シャツを着た兄がニコニコと手を振ってやってきた。長身だからよく目立つ。
「これ、最近聴いてるおすすめ。これだけ渡したかったんだ」
そう言って、『クラムボン 百年蔵』と兄の字で書いてあるCD-Rをくれた。私に渡すために焼いてきてくれたのだろう。
遅刻した私を責めることもなく、この1枚のCDだけを渡そうとここまで来てくれたのだ。出かけるのを面倒に感じた自分を大いに恥じた。
「わざわざありがとう。ごめんね。またお盆にね!」
その日は兄の優しさがいつもよりなんだか照れくさくて、気の利いた言葉も言えなかった。
「おう、またな!」
高速バスの時間が迫っていた。交わした言葉は二、三言。別れ際、いつものかたい握手をして、笑顔で何度か振り向きながら兄は駅へ走っていった。
帰ってからすぐにCDを聴いた。初めてのクラムボン。ライブ音源を収録したアルバムだった。
一曲目の『シカゴ』のパチパチ弾けるような軽やかさがこの季節にぴったりで、5月に聴いて欲しかったのかもしれない、と思った。
ライブに行ってみたいな。お盆に帰ったら誘ってみよう。そんなことを考えていた。
その3週間後に兄は交通事故で死んでしまった。
あの橋の上での光景を、あれから何度思い返しただろう。あの日あのとき、どうしてちゃんと起きて一緒にお昼ご飯を食べなかったんだろう。約束の日の前日に、どうして朝まで酒を飲んだんだろう。
東京での生活に夢中になって、地元に住む兄を軽んじた。実家に帰れば、またいつでも会えると思っていた。
駅まで走る兄の後ろ姿を何万回も反芻した。人生でどこか一日だけ過去に戻れるとしたら、間違いなくこの日だった。
朝はきちんと起き、約束通りの時間に集合場所へ行く。高速バスの時間はきっと変えられない。
あの日、兄が食べたかったものは何だろう。早めにランチを済ませて、タワーレコードに行くのも良いかもしれない。
東京の新緑の下で、一緒にコーヒーを飲むのも良いだろう。もらったCDの話を聞くかもしれない。どの曲が一番好きだったのか、今となってはもう知る術もない。
5月。草木が全力で芽吹き、さらさらと揺れる美しい緑のグラデーションから木漏れ日がさす。東京は意外にも砂漠ではなく、あちこちに緑が植えられている。生き生きとした生命力が毎年私を元気づける。
同時に、さまざまなことが蘇る。天気が良かったあの日のこと。握手をしたときの、ゴツゴツした大きな手。
今日笑ってバイバイしたあの人に、二度と会えなくなるかもしれない。兄の十七回忌を終えてもなお、誰かとの別れ際はそんなことも忘れてしまう。
込み上げる思い出が語りかける。当たり前じゃない。何気ない日々に誠実でありたい。小さな誓いを立てる、梅雨目前の晴れた日。