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AIとの共存に向けたAI映画解説♯11 『チャッピー』成長するAIと機械化する身体

映画『チャッピー』は、近未来の南アフリカ・ヨハネスブルグを舞台に、AIを搭載した警察ロボット「スカウト」とその開発者ディオンの挑戦を描いています。治安が悪化するヨハネスブルグで、警察は自律的に行動できるスカウト型ロボットを導入し、犯罪抑止に成功します。しかし、これらのロボットは指示に従うだけの「標準モデル」で、自律的な思考や学習はできません。開発者ディオンは、さらに高度なAIを目指し「自我を持ち、成長するAIプログラム」を独自に開発し、廃棄予定のスカウト型を使って特別なロボット「チャッピー」を誕生させます。

チャッピーはディオンのAIによって、自分で考え、学習する能力を持ち、次第に人間のような感情や「生きること」への欲求を抱き始めます。しかし、ディオンの手から離れたチャッピーは犯罪者に誘拐され、倫理観のない環境で教育を受け、次第にギャングの影響を受けた自我を形成していきます。こういった環境で育つと言葉は汚くなり、仕草さえもチンピラのようになってしまいます。やがてチャッピーは生と死の概念を学び、ロボットである自分が「寿命」を持つことに恐怖を抱くようになります。この先チャッピーのバッテリーすでにこの過程を通じて、彼は人間と同様に「死に対する恐怖」と「生への執着」を持つようになり、さらに成長していきます。ここでチャッピーは、他のスカウト型ロボットとは違い、単なる命令に従うだけでなく、自らの存在意義を模索する「特別な存在」となります

一方、AIに懐疑的な同僚ヴィンセントは、人間が操縦するロボット「ムース」の導入を推進しており、自分から判断するチャッピーの存在を危険視します。彼はガードキーを奪ってチャッピーを暴走させ、AIの脅威を証明しようと画策します。彼の思惑通り、チャッピー型のシステムが改変されて暴走すると、ディオンの「自律型ロボット」への期待は打ち砕かれ、AIロボットに対する社会の不安が一層高まります。ヴィンセントはこれを機に、完全に人間が管理できるムースの有用性を証明しようとし、チャッピーとの対決が繰り広げられます。この対立は、AIや自律型ロボットがもたらす可能性と、そうしたものの普及による今日の社会が抱く不安や疑念を見事に体現しており、物語にスリルと緊張感を与えます。 

やはりロボットはでかい方がいいのか?

激しいギャングとの抗争、そこに現れたヴィンセントに乗ったムースにより先頭が激化し、最終的にチャッピー達は勝利し、自らの意識を他のロボットに移すことで「生」を継続する手段を見出します。しかし、ここで意外な展開が待っています。チャッピーは、自分を開発し育ててくれたディオンの「意識」をもデジタル化し、瀕死のディオンの肉体からロボットの体へ移し替えるのです。ディオンの命はこれによって救われますが、それは同時に彼が「人間としての肉体」を失い、機械の体で生き続けることを意味します。こうして一見すると「助けられてハッピーエンド」にも見える終わり方ですが、「肉体を捨ててデジタル化された意識として生きることが本当に幸福なのか?」という深い問いが残ります。

ディオンが開発した自律型ロボットが成功すれば、全てのスカウト型にAIが搭載され、柔軟な治安維持が実現する可能性がありましたが、逆に、管理や倫理面での問題も生じかねません。また、チャッピーとディオンのように「デジタル化された意識」が果たして本当に「自分」であると言えるのか、永遠の命がもたらす人間性の喪失や価値観の変容も暗示されます。観客は、機械として生き続けることが人間にとって望むべき未来なのかを考えさせられ、単なるハッピーエンドに終わらない複雑な余韻が残る作品として『チャッピー』の深みを味わえると思います。
デジタル化した人間が機械に置き換わった時、バッテリーやメンテナンスなどによっては不死に近い存在になるかもしれません。それが現実となった時、人類はみんなチャッピーになることでしょう。

ロボットになると生活はどうなる?

上記のチャッピーのBlu-rayには特典映像として、”もう一つのエンディング”というものがあり、見直したところ、みんなチャッピーになっていましたw
個人的にはこちらの方が好きなエンド。
気になる方はぜひ観てみてほしいです。



映画『チャッピー』や『第9地区』に登場するランドマーク的な円柱の建物は、ヨハネスブルグに実在する「ポンテ・シティ・アパートメント」です。この高層ビルは、もともと富裕層向けの高級マンションとして1975年に建設されました。高さ173メートル、54階建てで、中央が吹き抜けになっている独特のデザインが特徴的です。

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