【改稿】『またあしたの窓』を開く(全体公開)
私のなかに、激しい独占欲がありました。
自分にそういう感情があることは知っていました。例えば好きな事物において、よりお詳しい方がいたら、無条件降伏をして尊敬する方向に舵を切ります。それ以上恥をかかないための保身です。でもそうでもないのに知ったかぶっている人を見かけたら、徹底的に叩きのめしたくなるのです。これはとてもよろしくない、私の考え方の癖です。
先日環さんのコミュニティ内で、私にとっての神さまの話をしました。宗教的なものを論じることはわたしの能力ではできなくて、何に足元が冷えるような背筋が震えるような畏怖を感じるか、そんな話です。
これはそんな、神さまを生み出す人のかけらを、手に入れることになるまでのお話です。
「えほんやするばんばんするかいしゃ」という一風変わった本屋さんが高円寺にあります。赤いガラス格子の引き戸を開けると、小ぢんまりした子どもの本の新刊が陳列されていて、BGMは、ふう、とか、ほ、とかいう、クラリネットの音です。よくよく聴くと、それはただの音の羅列ではなく、その中にメロディがあり、物語が潜んでいます。
ここだけで、私を知る人はわたしの内心をご存じでしょう。穏やかな表現を使うなら、「東京でいちばん酸素が濃い」です。
るすばんばんさんには「奥の部屋」があります。そこへ足を踏み入れたときのことを、私は忘れもしません。
ギシ、と足音がしました。手前の部屋は土間だったか、どういった床か忘れてしまったのですが、奥の部屋の床は板張りでした。分厚いスニーカーを履いていたのに、すごい音がしたので、わたしはこんな体重(ものすごく大きなわだかまりがあるのです)で歩いていいものだろうかと束の間、迷ったのですが、それよりも目に入った光景に心を奪われてしまいました。
白水麻耶子さんの「ウハムルリ」。
それが、その展覧会の名前でした。
白水さんは、尾道で絵や立体作品を作っておられる作家さんです。野にたたずむ獣たち、手をつなぐ乙女たち、それらを結びつけるように伸びる、花や実のついた枝々。柔らかな色彩に混ざる金色。
神さまって、こんな姿かたちだったかしら、と思いました。
時間は飛んで、10月のおわりからこの方のあたらしい展覧会『またあしたの窓』があるというので、初日るすばんばんさんに伺ってきました。ちょっと熱心なファンみたいで照れますが……まあ、ちょっと、ぼちぼち熱心なファンです……伺ったら、二番乗りでした。ファンですからね。
そうしたら、白水さんご本人がいらしたのです。ああ、この人が、わたしの神さまのようなものを生み出す人なんだ、と、雷に打たれたような思いがしました。
いきなり、白水さんは神さまのようなものを描かれている気がして、とても好きです、なんて怪しい話し方をしてしまい、のちに頭を抱えるのですが、その手で、こころで、神さまを生み出す人は、お優しい方でした。 蜜柑を一つ、手渡してくれました。ポケットに大切に入れて、持って帰りました。
その展覧会で展示されている作品は額に入った大きな絵からボール紙に書かれたもの、ライトが煌々と灯った立体までさまざまあって、その中に、木片を彫って彩色したものがいくつかならべて壁に貼り付けられていました。
鏡を抱いた猫がいて、それはたぶん、人の目線の高さに飾られていたのですが、私はせいがすこしばかり高いので少し展示の意図とずれていて、その木片の猫と目が合った瞬間、鏡には口紅をべったり塗った私自身の唇が、映っていました。
もともと、私自身のパーツの中で気に入っているのものってあまりないのですが、中でも唇って少しマイナスのイメージがあるパーツなんです。いや、スマートフォンでSNSを巡回していると、化粧品の広告で唇のおおうつしが流れますよね、あれは本当に嫌で、どこがいいのかわからない。粘膜やん、と思ってしまうのです。自分の唇なんていうものも、嫌いとか疎外するなんていうアクティブに嫌いなわけではないけれど、無意識に見ないふりをしていた、そんな、これといって特徴ないパーツです。 その唇が、小さな鏡に切り取られたように映っていて、でもそれは、私が思っているよりも少しだけ、甘美に見えました。ふしぎに、とらわれました。自分のパーツなんていいところがない。自ら断じていた、私の唇。
そう、一目惚れでした。この作品を、手元に置けたら、私はすごくしあわせなんじゃないか。そんな独占欲が、渦巻き始めました。 白水さんのカレンダーは、彼女のBASEで購入しました。BASEには他にも似たような小さな木片彫刻作品が掲載されていて、お値段には見当がつきます。手が届かないほど遠くに存在するものでは、ない。
暴力的なまでの執着心、独占欲が私の中を席巻します。それは、ぐるぐると渦巻き、泡立ち、嫌な臭いを放ちます。焦燥感をあおります。嵐のように感情を掻き乱し、乱高下する気圧のように私の自律神経を翻弄します。
とうとう、販売が開始された当日。私は一番乗りでお店を訪れ、その作品を購入しました。 芸術作品を購うという経験は、初めてでした。
神さまのようなものを生み出す人はまだ東京にいらっしゃって、拙く話す私に、また蜜柑を手渡してくれました。
そして、そこには「ひと月後にその作品をお迎えする券」を手にしたわたしが、残されました。
作品は本当に繊細で儚くて光っていて、落としたら割れてしまうようなものなのに、私はひどく暴力的な独占欲で、そしてお金という身も蓋もない手段で買い求めてしまう、もっと有り体に言えば、札でぶんなぐってしまうような無粋で、その甘美さを、神性、光を穢した気がして、私の暴力は繊細さや儚さをぎゅうぎゅうと絞め殺してしまったのではないか、という、呆然としたような、しかしその作品が手元に来る悦びに打ち震えるような心地でした。
そんなところへお友だちの環さんが言ってくれた言葉を引用します。
そうか、対価と評価、わたしがこの激しい独占欲で、わたしのお財布事情からけっして出しやすいとは言えない対価を払ったことは、芸術家への評価になるのだ。つまりこの(みっともない)執着すら……
とおもうと、やはり恥ずかしいものが残るのですが、これを半公共のものとして、せめて自分の書斎ではなく玄関に飾ろうかと思うので、そしていつかはどなたかにお譲りするかもしれないという気持ちでいることで、チャラとまでは言えませんが、少しばかりの埋め草になるのではないか、そう思うことにします。
最後に、こちらが購入した作品。 展覧会が終わるひと月後まで、会いに行かないと見られないので写真を撮らせてもらいました。
なにはともあれ、飾る日が楽しみです。出かけるたびにどこかのパーツを映して、すこし自分に甘美な気持ちを与え、満足して、ニンマリしたい。そういう欲があります。
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