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さよならだけが人生だ。(2024/01/14)


5年ほどやっていた趣味の音声配信に一区切りつけることにした。


Radiotalkでは素敵な人にたくさん出会えたし、何より「音声配信」に出会えて(出会い直せて?)良かったと思っているが
反面、だんだんと苦手な人も増えた。一番最初に大きくそれを感じたのは4年ほど前になる。

悪かったことに、私が苦手になった人は押し並べて人気者だった。人気者だから、彼ら彼女らを好きな人たちがたくさんいる。人気者だから、私の好きな人たちも彼ら彼女らのことが好きだ。

私としてはもう関わらないでいたいと思っても、人づてに名前や、その存在を感じるものを目や耳にすることがある。ミュートやブロックをしたり、フォローを外したりしても、それは何度も発生した。その度に暗い灰色の煙が心に立ち込めて、そういう風に感じる自分のことが嫌になった。

「実は◯◯さんのことが苦手」「実は△△さんとこういうことがあって、それ以来受け入れられない自分がいる」ということを、今まで周りの人に伝えることはあまりしてこなかった。
伝えて楽になりたいという自分と、伝えることは良くないと思う自分がいた。伝えても相手を困らせたり悲しませたりするだけで、私が楽になることはあまりないような気もした。

そして何より、謝られたくなかった。Radiotalkには優しい人が多いから、詳細を話したら私に謝ってしまう人がいそうだった。「そうとは知らず、今までにどねさんの前でその人の話題を出してしまってごめんなさい」とか。
そうしたら私は「大丈夫ですよ」と言うしかない。大丈夫じゃなくても。

(必要に迫られた時や、クローズドな場で苦手な人の名前をカミングアウトして聞いてもらったこともあります。聞いてくれた人ありがとう。)

苦手と公言した人たちもいる。しかし、それでもオフの場でその人たちの名前を出されることはあって、その度に「へー」と聞き流すか飲み込むしかなかった。それは私にとって喉がちょっと詰まるような、少し苦しい作業だった。


ドラマ「いちばんすきな花」の中で、「かすり傷でもいっぱいつけられたら死ぬ」というような台詞があった。
私の場合、無論、死ぬほどのことではなかった。
なかったが、息がしやすいのに越したことはない。

例えばこの記事もいつか忘れられて、あなたの記憶からなくなるだろう。公言しても変わらない、というのは大凡そういうことだと思う。
私のなかにこびりつく憎しみも、沸々とおさまらない恨みつらみも、他人からすれば文字通り他人事なのだ。


関わりたくなくなってしまった人たちの情報が視界や耳に入らない間は、私は平穏でいられた。
となると、自分の心にとって一番良いのはRadiotalkを離れることだった。

Radiotalkを離れ、今いるコミュニティーの人たちとの関係を断つ。本当はきっとそれが一番良い。心穏やかに過ごすためには。

だから本当は全部スパッと辞めていなくなるのが良かったと思う。思うが、それはそれであまりにも不義理で、傲慢な気がした。ただの我儘かもしれないけれど。
けれども、そう考えられるようになった自分は、若い頃よりも進歩したように感じる。

そういった状況の中で悩んで出した答えが、今のかたちだった。
Radiotalkでの”にどね”の存在をなるべく小さくする。新しい場所では違う名前にする。
私は私だけれど、”にどね”じゃなくなったら、苦手な人たちの名前を聞いたり関わったりする機会が減るかも知れない、という淡い希望と、
私が”にどね”じゃなくなっても、私の話を聞いてくれる人がいるかも知れない、という浅はかな願望があった。


ずっと楽しい場所にしていたかった。でもそれは無理だった。私の心が狭くて固いから。

やわらかい人になりたい。一生かかっても無理かも知れないけれど、少しでもなれたらいいなと思う。



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2024年の1月14日に書いて、ずっと下書きに入れていた記事です。一年経ったので出してみました。当時のまま推敲はしていません。
読んでくださった方、ありがとうございました。


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